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「第2回:「社会のことを考える人」を育てる」
人間理解の知見を社会に広げていく
山口
欧米では人文学者が企業で活躍している例も多く、最近ではGoogleの自動運転プロジェクト(現Waymo)や日産自動車の自動運転車開発で、人類学者のメリッサ・セフキン氏が重要な役割を担っていたりします。自動運転技術の開発というとセンサーや画像認識などの技術中心の議論になりそうな気がしますが、そもそもクルマや道路を利用するのは人間ですから、人間中心の視点で、人間と機械の相互作用として思考すべきだということですよね。
伊藤
リベラルアーツ教育にゴールがあるとしたら、そういうところなのかなと思います。
山口
人間理解の知見を社会に広げていくこと。
伊藤
そうです。日本では、人文社会系のドクターを取ると基本的には大学に就職しますが、ビジネスや企業の研究開発などで活躍する道が当たり前に、というのは難しくても、今よりもっと広がってほしいと思っています。
「リベラルアーツは役に立たないものでいい」みたいに言う人もいますけれど、なんだか仙人みたいというか、悟りの境地にいるみたいで、私自身はあまりそのようには考えていません。それでは文系の研究者の言うことを余白としてしか受け取ってもらえないでしょう。やはり、ビジネスや社会の核心部分に組み込まれるようになってほしいと思うんです。ただ、さきほども言ったように日本の人文学者にはコンサバティブな傾向があります。社会との接点がなかなか増えないのは、こちら側にも問題があるのかもしれません。
山口
そこはなかなか悩ましいところですね。MITの人文社会系で最も有名な研究者の一人が言語学者のノーム・チョムスキーですが、彼の研究オフィスがあった第20号館は伝説的な場所として知られています。戦時中の仮設施設で建物は粗末だったものの、言語学、核物理学、計算機科学など、さまざまな分野の研究者が混在していたことで、雑談を通じたアイデアの交換などもあり、チョムスキーの「生成文法」をはじめとする革新的なアイデアが生み出されたわけですよね。文理の融合、人文知と社会との融合を進めるには、そうした学際的な交流ができるように環境から変えていく必要があるのかもしれません。

正しさを押し付けられているという感覚
山口
人間理解の知見を社会に広げていくという点から言うと、ビジネスの世界でリーダーにリベラルアーツが必要だという意識が高まっているのは歓迎すべきことと言えます。伊藤先生は、リーダーにリベラルアーツが必要なのはなぜかと問われたら、どのようにお答えになりますか。
伊藤
あらためて訊かれると難しいですね。ただ、最近は理想と現実の違いみたいなものを感じています。理想について言うと、本学で言えば、学生が技術を手にして社会へ出ていくとき、その使い道を間違えないためです。
一方で、現実問題として、この5年くらいで社会の分断が進んでいますよね。分断の原因の一つに、みんながそれぞれ正しさを主張する「正しさ合戦」のようなものがあって、学生からは、リベラルアーツがその仮想敵みたいに見られていると感じることが増えています。
例えば、本学では、他の大学に先駆けて、入試の一部に「女子枠」を設けました。それは、さまざまな手を尽くしても女子学生比率が高まらなかったため、ある意味で最後の手段として実施したことです。ところが、それに不満や怒りを感じる学生も出てきていて、その矛先がリベラルアーツの教員に向けられるんです。リベラルアーツ教育で尊重する多様性や公正さといったことの不利益を受けているのが自分たちだという感覚を、彼らは持っているのです。
山口
今のアメリカで起きていることと似ていますね。
伊藤
そうです、まさにそうで、リベラルアーツが「正しさのおばけ」みたいに学生からは見えているのだと思います。彼らは正しさを押し付けられていると感じているので、教員が正しさを説明すればするほど頑なになって分断が進むのではないか、と危惧してしまいます。そうした意味では、リベラルアーツに向けられる目線が、社会においてはそうでもないのかもしれませんが、少なくとも大学の中では少し変質していることを感じています。
山口
アメリカの反DEI(Diversity、Equity、Inclusion)の動きというのも、人種優遇措置が白人や非マイノリティに対する逆差別であるとか、能力主義に反するといった不満があるわけですよね。
伊藤
そうですね。マイノリティの問題で感じるのは、今、学生たちがみんな「生きづらい」と言うんですよ。生きづらさって、もともと貧困層やマイノリティの人たちの状況を示す言葉として始まったと思うのですが、今はもう「1億総生きづらい」みたいなになっているように感じます。
山口
伊藤先生も生きづらいですか。
伊藤
私は自分については生きづらいという言葉は使いません。
山口
そうですよね。
伊藤
でも、今の若者はみんなが自分のマイノリティ性を探していて、何でもいいからマイノリティだと示すことによって、自分が加害側に立たないように工夫して生きているんです。加害側に立ったら批判されますから当然です。でも、そうすると、みんなが「私はこんなに社会から抑圧されています。なんとかしてください」と注文する側になっている。それでは誰も社会をつくる人がいなくなってしまいますよね。ですから、「社会のことを考える人」を育てることがリベラルアーツのこれからの役割なのかもしれないと思っています。
山口
社会やビジネスのリーダーには絶対に必要な思考ですね。
伊藤
それはある種の「タテマエ」とも言えます。「ホンネ」を言うほうがカッコイイという空気がある中で、タテマエの次元でちゃんと社会をつくっていく側になるための学びを提供するのがリベラルアーツなのかもしれないと、学生を見ていると感じます。
第3回は、3月13日公開予定です。

伊藤 亜紗
美学者。東京科学大学 未来社会創成研究院/リベラルアーツ研究教育院 教授。MIT客員研究員(2019)。博士(文学)。主な著作に『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社)、『どもる体』(医学書院)、『記憶する体』(春秋社)、『手の倫理』(講談社)。第42回サントリー学芸賞、第19回日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞受賞。

山口 周
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『クリティカル・ビジネス・パラダイム』(プレジデント社)他多数。最新著は『人生の経営戦略 自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。
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