「第1回:緊急性と重要性」はこちら>
「第2回:人間軽視」はこちら>
「第3回:戦中日記」はこちら>
「第4回:損得という抑止力」はこちら>
「第5回:プーチンの錯乱」
※ 本記事は、2025年10月7日時点で書かれた内容となっています。
2025年10月の時点で、まだロシアのウクライナ侵攻が続いています。これが始まった時にプーチンは、「非人道的な扱いを受けている人々を保護する」とか、「派遣の要請を受けた」とか、「紛争を解決して平和と安定を回復する」とか、「他の選択肢はなかった」と言っていました。これは20世紀以降の戦争が始まるパターンをそのまま踏襲しています。戦争について人間は何ひとつ進歩していません。
2015年から2017年の2年間、映画監督のオリバー・ストーンがプーチンにかなり突っ込んだインタビューを重ねた記録を、『オリバー・ストーン オン プーチン』という本にまとめました。オリバー・ストーンは現代アメリカを代表する反体制派ですから、アメリカ政府に対しては明確に批判的です。
僕が2019年にこの本を読んだ時、政治指導者としてのプーチンは、冷静で損得勘定にたけた人だという印象を受けました。インタビュアーのオリバー・ストーンから、もうアメリカは駄目だという話をふられると、プーチンは「自分はロシアの国益だけを考えている」「アメリカに対しては中立的だ」「あなたの反米主義に巻き込まないでもらえないか」と切り返しています。率直かつ徹底した現実主義で国益を追求する。僕は現役の政治指導者としては大したタマだと思いました。
オリバー・ストーンが、このままだとアメリカは破滅すると言った時にもプーチンは、「あなたの国は破滅するかもしれないが、私の国は実際に破滅したことがあるのだ。自分は現実に破滅した国を任されて、ここまで何とかやってきた。アメリカはまだ破滅していないじゃないか。アメリカとロシアでは、政治指導者の難易度が全く違う。破滅していない国の舵取りなんて、誰にでもできる」と言っています。
多くの修羅場を経験し、紆余曲折の中で一定の成果を上げてきた政治指導者が、なぜウクライナ侵攻を始めてしまったのか。かつては冷静に国益第一を考えていたプーチンが、なぜこういう愚行に踏み込んだのか。これが国際法や国連憲章に違反しているというのは当然ですが、損得勘定においてもプーチンは錯乱しています。ウクライナはもちろん、ロシアにとっても何の得にもならないどころか、ロシアの国益を徹底的に毀損しています。ベトナム戦争と同じパターンです。
僕はプーチンが錯乱した最大の原因は、生物的な本能にあると考えています。誰しも歳をとる。その先には死が待っている。指導者として残りの時間が短くなっている。これはプーチンにとって最大の制約条件です。
フィリップ・ショートが書いた異常に長いプーチンの本格評伝『プーチン』を読みました。彼は自分の経験と実績に絶対の自信を持っています。自分の能力に疑いを持っていたら、強権国家の指導者はできません。彼は自分ほどの人物は今のロシアにはいないし、今後も出てこないだろうと思っている。それだけに、自分のあとのロシアが心配で仕方がない。だからこそ、自分が指導者として現役でいる間に、何とか後世まで続く道をつけておかなければならない。はたから見ると狂気と錯乱でしかないのですが、本人は今しかないと判断した。これが現時点での僕の理解です。
戦争終結に向けて、プーチンがどう動くのかはまだ分かりません。これからの時代は意思決定や政策実行の点で考えると、強権国家の方が民主主義国家よりも優位にあると言う人がいますが、それはとんでもない妄言です。あれほどの修羅場をくぐり抜けて、難しい舵取りを冷静にこなしてきたプーチンでさえ、このありさまなのです。確かに民主主義は非効率の極みです。民主主義が機能し過ぎると、すぐポピュリズムに陥ります。今のアメリカがそうで、厄介なことになる。それでも民主主義の方がはるかにマシであることは間違いない。過去の歴史を見ても明らかです。
独裁者の存立基盤は国民の支持ですから、独裁者ほど国民の支持を気にします。選挙のような法的ルールに基づいていないだけで、独裁者は世論を気にする。だから強権主義は、言論と報道の自由を必ず制限します。かつての日本もそうでした。日本の場合、天皇の下で軍部が暴走していくメカニズムが明治憲法の隙を突いて出てきたので、事情は非常に複雑ですが、言論と報道の自由が制限されました。ですから戦争抑止とか不戦にとって、自由と民主主義は生命線なのです。自由は「生活第一」の絶対の基盤です。
東條英機は敗戦後、戦争犯罪人として逮捕されて巣鴨プリズンに拘留されます。あれほど、日本をぐいぐいと戦争に引きずっていき、戦局が悪くなっても戦いあるのみだ、と言っていた主戦論者が、巣鴨プリズンで書いていた日記の中で「日本が負けたのは民主主義がなかったからだ」とあっさりと反省しています。実際に自分が接しているアメリカの進駐軍を見て、やはり往時のアメリカの民主主義はすごいと感じさせられた。
結論としては、万が一これから日本で強権主義が台頭した時は、これを全力で阻止しなければならないということです。僕がこんな呑気な生活を続けられるのも、日本が平和だからです。僕はいつまでもこの平和が続いて欲しいと、心の底から願っています。
「第1回:緊急性と重要性」はこちら>
「第2回:人間軽視」はこちら>
「第3回:戦中日記」はこちら>
「第4回:損得という抑止力」はこちら>
「第5回:プーチンの錯乱」

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。



