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楠木建教授が何より大切だと考えている、平和。それを守り続けるためになくてはならないのが、「不戦教養」だ。人はみな戦争には反対なのに、なぜ戦争が絶えないのか。戦争を繰り返さないために、私たちが日頃から意識しておくべきことは何か。不穏な社会だからこそ、戦争に対する深い教養が価値を持つ。その3では、戦時下を生きた普通の人たちの意識や暮らしを知るために最適な「戦中日記」について考える。

「第1回:緊急性と重要性」はこちら>
「第2回:人間軽視」はこちら>
「第3回:戦中日記」

※ 本記事は、2025年10月7日時点で書かれた内容となっています。

僕が戦争について考える時に多くのことを学んだのが、市井の生活者として戦時下を生きた人たちが残した日記です。最初に読んだのは、アンネ・フランクの『アンネの日記』でしたが、太平洋戦争下の日本人の日記に限定しても、多くの日記が残されています。名著と言われている清沢洌の『暗黒日記』、高見順の『敗戦日記』、徳川夢声の『夢声戦争日記』、山田風太郎の『戦中派虫けら日記』『戦中派不戦日記』、内田百閒の『東京焼盡』。僕はこういった日記には、日記だけが持ち得る価値があると思っていて、実際に多くのことを学びました。普通の人にとって戦争というのは、こういうふうに始まって、人々はそれをこんな感じで受け止めて、戦時体制に組み込まれていくのか。そういったことが時間的な奥行きをもって理解できるのです。

戦時下を生きた人々の日記の中でも、僕にとってのベストは、以前に紹介したことがある『古川ロッパ昭和日記』です。これは戦前の喜劇スターだった古川緑波が、戦前の1934年から晩年の1960年までずっと書いていた日記で、2段組の小さな活字がびっしり詰まって4巻出ている長尺ものになります。ある程度の年齢の方は、エノケン・ロッパというフレーズを聞いたことがあるかもしれません。榎本健一、通称エノケンと呼ばれる人気喜劇役者と並んで人気のあった、戦前の日本でもっとも成功した喜劇人、それがロッパこと古川緑波でした。

『古川ロッパ昭和日記』を読みますと、当時の都市のライフスタイルというのは、あまり今と変わらないことに気づきます。AIやスマートフォンはありませんが、違うことはそれぐらいで、人々がやっていることはだいたい同じなのが面白い。都市部の会社員の生活を見ると、ちょっとおしゃれをして銀座に行き、洋食屋でガールフレンドと一緒にビーフカツレツを食べて、有楽町の劇場でロッパの喜劇を見て、そのあとフルーツパーラーでお茶をして地下鉄で帰る、そういう生活をしている。

それが1935年ぐらいになると、人々が戦争の危機をうっすら感じはじめます。そして1937年に日中戦争が始まります。本格的な大戦争になるかもしれないという話が新聞に出てくるようになり、人々が漠然と心配するようになる。それでもみんな日常生活に変わりはありません。ロッパも連日舞台に立って観客を熱狂させていますし、お客さんも全然減っていません。

ついに1941年12月8日に真珠湾攻撃とマレー作戦があって、日本は太平洋戦争に突入します。ロッパの日記に限らず、当時の日本人の日記に共通しているのは、異様な高揚感に包まれるところです。帝国主義で散々好き勝手してきたはずの西洋の国が、アジアの新興国である日本を、ABCD包囲陣(※)でいじめている。そんな中で、ついにわれわれの立つ日が来たという高揚感です。
※ ABCD包囲陣:1930年代後半から大日本帝国の海外進出や紛争に対抗して行われた、石油や屑鉄など戦略物資の輸出規制・禁止によるアメリカ、イギリス、中国、オランダによる経済的な対日包囲網。

当時の日本には、理不尽な我慢を強いられているという鬱屈した雰囲気があることが、日記を読むとよく分かります。実際に東京で暮らしている人たちは、それほど我慢を強いられているわけではありません。それでも気分的に面白くない。それがついに開戦によって、日本を閉ざしていたふたが取れて、空が見えたような爽快感が一時的に世の中を覆うのです。

その後ミッドウェー海戦で大敗し、戦況はがらがらと悪い方向に転がっていきますが、こういう悪いニュースは国民には知らされません。ロッパのようなインテリは、何となくうまくいっていないことに気づきはじめてはいるものの、最悪の事態はまだ考えていません。その頃前線の兵士は、とんでもない日々を送っているわけですが、日本にいる人々はそれぞれの日常を普通に送っている。1943年になっても、まだ人々はまずまず普通に暮らしています。

1944年、ついに本土爆撃が始まります。当たり前のことですが、どの日記を読んでも最初は極度の恐怖に襲われます。爆撃機が1機飛んできただけで、防空壕の中で心臓が止まりそうになるほどの恐怖におびえます。ところが3カ月もたつと、連日のことなのでもう完全に空襲慣れしていきます。空襲警報が鳴っても、防空壕に入るのが面倒なので、もうその辺で平然としている。焼夷弾が落ちるとそれでたき火をしたり、「今日はこの辺でそろそろおしまいだろうな」なんて話をしている。

開戦前からこうなるまでの、年表に書くとごく短い間の急激な変化。それが実際には徐々に起きているという成り行きが、日記を読むと手に取るようにわかります。開戦までの普通の人々の生活、開戦直後の全国民的な高揚感、そのあとの情報統制や漠然とした不安、人間の適応力など、1日1日ゆっくり戦争に向かっていく世の中の雰囲気を追体験することができるのです。

幸いなことに、われわれは直接戦争を経験していませんが、日記を読むことで自分はどうやって生きればいいのかという指針を得ることができます。これこそ日記という記述形式に固有の価値だと思います。

第4回は、12月22日公開予定です。

画像: 不戦教養―その3
戦中日記

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
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