「第1回:緊急性と重要性」はこちら>
「第2回:人間軽視」
※ 本記事は、2025年10月7日時点で書かれた内容となっています。
なぜ、戦争は反対だと言いながら戦争になるのか。この疑問を解くための王道は、戦争指導者の思考と行動をたどることです。僕が不戦教養に目覚めたのは、大学生のときに読んだ保阪正康先生の名著『東條英機と天皇の時代』がきっかけでした。日中戦争から太平洋戦争への流れというのは、日本の長い歴史の中でも最悪かつ最大の失敗だったと思いますが、何であんなひどいことになったのか僕なりにはじめて全体観を持ってイメージできたのが、この本を読んだ時でした。これはかなりの衝撃で、戦争の問題に限らず、人間と世の中について深く考えないといけないと思うようになりました。
明治以降の日本が戦前から抱えていたさまざまな矛盾、中でも最大のものが統帥権(※)の独立です。そうしたシステムの下で東條英機という真面目で、小心者で、長期的な思考がなく、なんの哲学も経験もない小役人みたいな人が、なぜあの重大局面の戦争指導者になってしまったのか。こんな小さな人間が、軍隊はもちろん政治指導者になると、どんな悲惨なことが起きるのかということが鮮烈に描かれています。僕の「不戦教養」の起点となった本です。
※ 統帥権:大日本帝国憲法下の日本における軍隊を指揮監督する最高の権限のこと。
戦争指導者の思考や行動をたどることと同じように大切なのが、前線で戦闘に従事していた日本軍の兵士の実態を知ることです。そこには、当時の日本の愚かさがもたらした悲劇が凝縮しています。これを知るためにお薦めしたいのは、吉田裕さんの書かれた『日本軍兵士』と続編の『続・日本軍兵士』です。
1937年の日中戦争から太平洋戦争が終わるまでに、310万人の日本軍の兵士が亡くなっていますが、それまでの大きな戦争とは少しパターンが異なります。まず、海没死という船舶の沈没による死者が、30万人と異常に多い。そして体当たり攻撃の特攻死、戦場での自殺。これは東條英機のとんでもない負の遺産なのですが、捕虜になることを禁止するという「戦陣訓」という前近代的な軍の掟みたいなものが残っていました。捕虜になるのを恐れたために、自分たちで自軍の兵隊を殺害するような死がまん延していた。日本軍の異常性が、その死に方に現れています。
何より特徴的なのは、戦死が少なく戦病死が圧倒的に多いということです。その最大の理由は、直接戦闘に使用される兵器や装備の充実を最優先したために、兵隊の食事とか衛生といった要素が著しく軽視されていた。突撃至上主義で戦闘のことばかりに考えが行ってしまい、そこで戦っている大勢の兵士たちの生活という視点が欠落していたからです。前線で戦う人間の生活を保てない国が負けるのは当たり前です。「極度の人間軽視」に当時の日本軍の危うさがありました。
よく知られているように、太平洋戦争が開戦した当時の日本の国民総生産というのはアメリカの約10分の1。国力という点ではどうしようもなく劣っていました。無謀としか言いようがない。日中戦争が先行して始まり、これが長期化すると、陸海軍が必要とする兵力は急速に拡大します。日本にとってどうやってこの兵力を充足するかは難題でした。というのは、当時の日本の工業水準は非常に低く、大量生産が未熟だった。あらゆる生産活動の量と質がアメリカと比べてはるかに劣っていた。日本の生産活動はひたすら労働集約的で、数多くの熟練した労働者を生産現場に置いておかなければなりませんでした。農業生産でも同じように労働集約的な零細農家が多かったので、生産を維持するためには農業労働の現場に多くの人を残しておかなければならなかった。アメリカと比べると、単に生産力がないだけではなく、兵力動員と労働力の間にきわめて深刻なトレードオフがあったのです。
それは、総人口に占める動員兵力の割合を見ても分かります。例えばドイツの兵士は、国民の17%が動員されています。イギリスが12%です。人口が多くて動員にゆとりがあるアメリカが7.5%なのに対し、日本の動員された兵力はわずか6.3%に過ぎません。最初から兵士が不足していますから、無理のある兵力動員を行わざるを得ない状況になるのは当然です。しかも日本軍は、自動車による移動や運搬などの機械化も大きく遅れていました。ありとあらゆる無理矛盾のしわ寄せをひたすら被ったのが、前線の兵士でした。
栄養失調が多発して、餓死する。過大な荷物を背負って徒歩で長距離の行軍をするので、疲労で死んでしまう。極限状態に置かれているので、発狂する人が多発する。兵士が足りないので、中高齢者や障害者などまで根こそぎ動員するという悪循環になっていきます。吉田さんの本を読んでいると、淡々と冷静に事実を伝えているにもかかわらず、日本軍の人間軽視があまりにすさまじくて、読んでいて本当に苦しくなってきます。
本を読むのが苦手だという方は、『ゲゲゲの鬼太郎』の水木しげるさんがお描きになった『総員玉砕せよ!』という漫画があります。これだけでも読んでいただきたい。彼はそういう異常な日本軍兵士の置かれていた状況を経験している人ですから、あの無謀な戦争の根底にどれだけ人間軽視があったのかを克明に描いています。
人間軽視が戦争への道を開くということは、裏返せば人間生活の重視こそ不戦の基盤になるということです。言葉にすると当たり前なのですが、一人ひとりが自分の生活を大切にすること、自分の身の回りにいる人を大切にすることが、僕は「不戦教養」の中核にあると思います。それを脅かすようなものに対しては、徹底的に抵抗する必要がある。先月のテーマだった菊池寛の「生活第一、芸術第二」という生活第一主義は、不戦の構えとしても本質を突いています。
第3回は、12月15日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。



