「第1回:愼 泰俊(シン・テジュン)氏」はこちら>
「第2回:小林賢治(コバヤシケンジ)氏」はこちら>
「第3回:安田隆二(ヤスダリュウジ)氏」
※ 本記事は、2025年8月5日時点で書かれた内容となっています。
3人目は、僕の同業者で先輩の安田隆二さんです。一橋大学大学院の特任教授で、特に金融機関の経営が専門です。安田さんは、僕が心から敬愛している方です。
はじめてお目にかかったのは、一橋大学に就職したばかりの頃でした。きっかけは、やはり先輩でずっと仕事をさせていただいていた竹内弘高さんが安田隆二さんと同世代で仲が良かった。竹内さんから紹介していただきました。
安田さんは、当時はマッキンゼーで金融を専門とする優秀なコンサルタントで、僕も名前は存じ上げていました。初対面の時からとてもチャーミングな方で、人間愛に満ちあふれている。笑顔がほとんどキユーピーさんです。金融機関専門のコンサルタントは、人間愛から程遠い人が多いと思い込んでいたので、こんなに笑顔が素敵な人もいるんだというのが第一印象でした。
その頃僕は一橋大学の商学部で教えていましたが、2000年にビジネススクールができることになり、最初の研究科長の竹内さんに誘われて移籍しました。以来ずっとそこで教えています。安田さんは、2年遅れで一橋大学のビジネススクールにいらしたんです。マッキンゼーからA.T. カーニーに移られてアジアの総代表を務めた後、一橋大学ビジネススクールの教授になられた。そこからは大先輩の同僚という関係で一緒に仕事をさせてもらっています。
国際企業戦略専攻というビジネススクールは、英語だけでやるインターナショナルのMBAプログラムです。僕は2000年から英語でしか教えたことがありません。小さい頃に海外で生活していたことはありましたが、10歳ぐらいからずっと日本で育ちましたので、最初は英語で教えることがかなり苦痛でした。英語で教えることはできるのですが、僕は日本語が得意中の得意なので、日本語で教える時と比較すると、大幅にクオリティが落ちることがフラストレーションになりました。
そんな時に、安田さんの講義を聞く機会がありました。安田さんは冗談を交えながら僕たちともよく話される方なのですが、彼の英語の講義は、普段日本語を話している時と全く印象が変わりませんでした。言葉が英語だというだけで、日本語で話している安田さんと何も変わらない。
安田さんは金融機関の経営の話でも、そもそも資本主義とは何だろうというところから話す。かなり抽象度が高くて言語化が難しいタイプの講義なのですが、いつもの安田さんがいつものようにばんばんしゃべっている。しかも僕が感動したのは、英語がわりといい加減なんです。僕は講義の時に、「正しい英語」を使わなければいけないと思っていて、それがストレスになっていたのですが、安田さんのアバウトな英語で全然いいんだと、そこで気づかされました。
安田さんはカリフォルニア大学のバークレー校で博士号まで取っている。ニューヨークでモルガン銀行に勤め、マッキンゼー、A.T. カーニーとずっと英語で仕事をされてきた人です。それでも英語は適当。僕はさらに安田さんのことが好きになりました。その講義の後で安田さんのところに行って、「安田さんの英語いいですね、本当に勉強になりました」と話すと、「日本語と同じようにしゃべればいいんだよ」という答えをいただきました。
「例えば、Speak、Spoke、Spokenとか、過去形なんていちいち変えるのは面倒くさいだろ。全部be動詞プラスingにしとけ。I was speakingと言えば、それは昔のことだなって分かる。最近は面倒くさいからbe動詞も使わなくなったよ。だって文脈で分かるから」と言われるのです。疑問文とかも面倒だから、とりあえず語尾だけ上げておけばいい。日本語でしゃべっている時に、「ご飯食べた?」で伝わるように、「Lunch?」と語尾を上げておけばそれでいい――本当にその通りだと思って、英語で講義をするのが少し楽になりました。
安田さんのイイ話があります。安田さんがカリフォルニア大学バークレー校で博士号を取った分野は政治学。経済や金融、経営などの知識は全くないのに、マッキンゼーに入ります。最初のクライアントが銀行で、先輩のミーティングに同行したのですが、そこで出てくる話が全然分からない。金融の知識は一切ないので、横でただ聞いていた。そして話題がキャッシュフローになった。安田さんは「さすがに銀行はすごい。『キャッシュフロー』というものがあるのか」と思います。ミーティングが終わり、さあ帰ろうというタイミングで安田さんは、「せっかくなので、キャッシュフローを見せていただけませんか」と聞いたそうです。銀行の方は、「それは先ほどからご説明してるように」と言って紙の資料でまた説明しようとするので、安田さんは、「そうではなくて、実物を見せてください」――もうお分かりだと思うのですが、安田さんは、キャッシュフローを「現金がが―っと流れている装置」だと思っていたのです。先輩がその勘違いに気づいて、安田さんを部屋から連れ出したそうです。
帰り道に先輩からキャッシュフローの説明を受けて、彼ははじめてそういう概念があることを知った。コンサルタントになった時には、それくらい何も知らなかった人が、やがて日本を代表する金融機関の専門コンサルタントになるわけです。僕はこのエピソードが人間の知的能力の本質を物語っていると思います。
その後、りそな銀行に公的資金が注入されて集中再生期間に入った時、僕はお手伝いに入ったのですが、そのチームの隊長が安田さんでした。そこで陣頭指揮を取る安田さんは、まさに銀行経営のプロ中のプロ。銀行業というものが手に取るようにわかっている。しかも、苦しい思いをされているりそな銀行の方たちへの心配りや、彼らを激励されている姿は、本当に感動的でした。プロフェッショナルとしてはもちろん、人間愛にあふれた先輩として尊敬しています。
※ 安田隆二:一橋大学大学院国際企業戦略研究科 教授/株式会社ジェイ・ウィル・パートナーズ 取締役会長 東京大学経済学部卒業後、カリフォルニア大学バークレー校で政治学博士(Ph.D)取得。モルガン銀行(ニューヨーク)、マッキンゼー・アンド・カンパニーのディレクターを経て、1995年よりスタンフォード大学客員研究員、1996年よりA.T.カーニー社アジア総代表、2003年6月より現職。専門は企業戦略論、企業再生経営、M&Aおよびバイアウト、金融機関経営論。著者に『企業再生マネジメント』(東洋経済新報社)など。
第4回は、10月27日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。
・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける
「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。
お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/
ご参加をお待ちしております。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。