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「第2回:「失われた30年」
※ 本記事は、2025年7月1日時点で書かれた内容となっています。
人手不足で労働市場がタイトになるということは、必然的にこれまでよりも労働市場の流動性が増すということです。それは企業の変化に対する適応能力にも、ポジティブな影響を与えることになる。
労働市場の流動性に関する議論としてここで取り上げたいのが、齋藤ジンさんという方がお書きになった『世界秩序が変わるとき 新自由主義からのゲームチェンジ』という本です。彼女は、失われた30年と言われる日本の停滞が、こんな長期に渡る必要はそもそもなかったと言っています。そうなった致命的な要因は1997年の金融危機の対応にあった。あの時にそれまで続いていた終身雇用をやめて、失業率が10%や15%になったとしても受け入れ、その代わりに企業を身軽にするという選択をしておけばよかったのではないか。企業が身軽になれば、コストカットだけではなく成長戦略を考える方向に舵を切ることができた。一時的に痛みを伴うが、そうすれば労働市場が流動化して、解雇された人が新しい成長分野に流れるという新陳代謝が始まっていたのではないか、そういう意見なんです。
ところが幸か不幸か、日本の企業には過去の蓄積がまだあったので、何としてでも雇用を守って危機を耐え忍ぼうという道を経営者が選択し、社員も残る道を選んだ。つまり、高度経済成長期以来の労働市場の低い流動性が、そこで維持されてしまった。労働市場が機能しない状態が、継続してしまったということです。
それは韓国と比較するとわかりやすい。韓国は金融危機の時に日本の企業ほど余力がなかったので、雇用をカットせざるを得なくなりました。もちろん大変な痛みがありましたが、財閥間で重複している事業の整理、規制の緩和、コーポレートガバナンスの有効化など、結果的に変化に適応できる能力を持つことができた。
日本は、高度経済成長期に非常にうまくいった成功体験にとらわれて、盲目的な終身雇用から逃れることができませんでした。働く側にとっても、転職は基本的に損なことだとかよくないことだという意識が残ってしまった。
問題は一部の社員がフリーライドすることにあります。つまり、大した仕事もしていないのに会社にぶら下がり続ける「ゾンビ社員」になる。就職氷河期の頃は、雇用全体を守るために非正規雇用社員を増やして労働コストを抑えようとした経営者もいました。これは非常に不健康な状態です。そんなゾンビ社員が退職になるまで30年かかった。斎藤さんは、これが「失われた30年」なのではないかとまで言っています。
ゾンビ社員が生まれるのは、彼らが特別に怠け者だったり悪い人だったりしたわけではない。マネジメントがまともに機能していなかった結果です。つまり労働市場の規律がなければ経営も緩むし、働く側もまた緩む。それが人間の本性です。
世界の先進国と比較すると、日本の労働生産性は低いと言われていますが、グローバルな製造業は全然低くない。問題は、日本のGDPの7割を占めるサービス業の生産性です。日本のサービス業の生産性はアメリカの約60%にとどまっていますから、ここに生産性上昇の大きな伸びしろが存在します。これまで日本のサービス業は、安価な労働力さえ手に入れば何とか続けられるという面がありましたが、ここにきて低賃金では働く人がいなくなってきました。これからは、賃金を払えない企業は淘汰されますから、従業員の給料は上がります。労働市場についても、こうした市場メカニズムが機能するようになる。これは健全なことだと思います。
しかし市場メカニズムをフル稼働させて突っ走ったアメリカは、上位10%の富裕層が国の資産の8割を所有してしまうような行き過ぎた格差が進んでしまった。そういう指摘も当然あるでしょうが、日本はまだ富の集中が4割と高くありませんし、アメリカとは現在地が異なります。市場メカニズムで効率を徹底して追求してきた先進国と比較すると、日本はこれまで抱えている従業員の人海戦術に頼ってきたので、まだやるべきことが残されています。
ここから先は確実に人手が不足するわけですから、デジタルに投資をする、AIを導入する、市場メカニズムで効率を徹底的に追求しても誰からも文句は言われません。低成長・非効率の道を選んだ日本には、市場メカニズムというカードを使う余地がある。これを生かすことで、企業の変化への適応能力も高めていくことができるはずです。これも、人手不足のいいところです。
第3回は、9月15日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。
楠木特任教授からのお知らせ
思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
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・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
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「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
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シリーズ紹介
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山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
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経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
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マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
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全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
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