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2005年、祖父・高井昇氏の背中を追い30歳で通天閣観光株式会社に入社した、現・代表取締役社長の高井隆光(りゅうこう)氏。入場者数増加をめざし、生かしきれていない通天閣の魅力を引き出すべく着目した要素が、かねてより“幸福の神”として展望台に鎮座していた「ビリケン像」だった。

「第1回:「広報」を「広告」に変換する」はこちら>
「第2回:「ビリケンさん」で全国から集客を」
「第3回:手薄だった「物販チャネル」の開拓」はこちら>
「第4回:通天閣そのものの「新たな魅力」づくり」はこちら>
「第5回:職場環境としての通天閣の魅力」

全国区ではなかった「ビリケンさん」

――高井さんは入社当初、広報活動に力を入れていたとのことですが、やはりその主目的は入場者数の増加にあったのでしょうか。

高井
そうです。やはり通天閣の事業の主軸は、入場者数をいかに増やすかにかかっています。広報に注力する中で思いついたPR要素が「ビリケンさん」でした。

画像: 2代目「ビリケンさん」。2012年まで展望台に鎮座していたが現在は3代目にその座を譲り、イベントの際にのみ登場する

2代目「ビリケンさん」。2012年まで展望台に鎮座していたが現在は3代目にその座を譲り、イベントの際にのみ登場する

今も通天閣の展望台に鎮座している「ビリケンさん」(3代目)は、幸福の神様、そして新世界の守り神と言われています。1980年の鎮座以来、関西では高い知名度を誇っていました。そこで僕が思い描いたプロモーションは、「ビリケンさん=大阪」というイメージを全国の人々に印象づけ、新世界に来ていただくきっかけにしていただくことでした。そこでまずは、ビリケンさん関連のグッズをたくさんつくりました。

それまでビリケンさんのグッズと言えば、通天閣でしか入手できないキーホルダー、のれん、置物の全3種類しか取り扱っていませんでした。そこで、ビリケンさんの商標を持つ田村駒株式会社と「ビリケン運営事務局」を立ち上げ、ライセンスビジネスを展開したのです。ビリケンさんをキャラクター化し、おみやげメーカーとコラボしてグッズを作り、大阪みやげとして大阪駅や伊丹空港の有名販売店にも置いていただきました。この取り組みが好評を博し、ビリケンさんの知名度アップにつながりました。

ビリケンブームに火が点くきっかけになった出来事が、東京・渋谷の東急百貨店本店でのイベントでした。大阪をテーマにした催事にお声掛けいただき、それまで門外不出だったビリケンさん(2代目)をお連れしてPRしたのです。ビリケンさんと僕が一緒に新幹線で東京に向かう道中もメディアの方が帯同してくださいましたし、東京でのイベントに参加すること自体が全国へのPRになりました。で、催事が終わって新世界に帰ると、飲食店の軒先にそれまでなかった大小のビリケン像が雨後のタケノコのように出現していたのです。入社して約半年後、2005年9月のことでした。

画像: 通天閣観光株式会社 高井隆光氏

通天閣観光株式会社 高井隆光氏

渋谷のイベントをきっかけに、全国各地のイベントからお声掛けいただけるようになりました。通天閣に人が来るのを待つのではなく、自分たちから届けに行くという攻めの姿勢に転じたことが功を奏しました。

ターゲットは大阪府外

――その後、通天閣の入場者数はどのように推移していきましたか。

高井
入社した2005年に約71万人だった年間入場者数が2006年には約91万人、2007年には約100万人に達しました。1970年以来の100万人突破でした。2006年には通天閣の営業時間をそれまでの10時~18時から10時~20時に延長したので、その効果も大きかったと思います。

営業時間の延長に対しては、地元商店街からの要望も強くありました。やはり、新世界の中で通天閣だけが目立って光り輝いていても地域にとってプラスにはなりません。せっかく通天閣に遊びに行ったのなら、まわりの飲食店で食べて帰りたいものです。なのに、夜はほとんどの店が閉まっていました。近隣のお店からすれば、お客さまが来ないから夜は店を閉めるわけです。通天閣が夜も営業すれば、その帰りにお客さまが串カツを食べたりビールを飲んだりしてくださるんじゃないか。新世界を賑わいのある街にしていけるんじゃないか――そんな思いから時間延長に踏み切りました。

結果、当時の若年層にとっての新世界や通天閣のイメージが徐々に変化したのでしょう。必然的に夜間にも多くお客さまが来られるようになり、2007年以降は年間100万人台の入場者数を維持できるようになりました。

画像: 平日の日中にもかかわらず観光客でにぎわう通天閣

平日の日中にもかかわらず観光客でにぎわう通天閣

――その頃の入場者数の内訳を教えていただけますか。

高井
関西以外の方が大部分です。当時のプロモーションのターゲットはあくまでも「通天閣を知らない方々」でした。それまで手付かずだったチャネルに絞ってプロモーションをかけたわけですから、非常に即効性が高い施策でした。

苦手なところをなんとかして伸ばすという経営手段もありますが、それでは時間も経費もかかってしまいます。伸ばせる余地を見極め、そこに全力を投入する。メリハリの利いたPRを心掛けました。

インバウンド需要をつかむ

――今、新世界の街を歩くと外国の方々を多く見かけます。外国人観光客が増えてきたのはいつ頃でしょうか。

高井
2014年以降です。2012年がちょうど初代通天閣の建設から数えて100周年ということで、メモリアルイベントをいくつか開催し、年間入場者数を約132万人まで伸ばしました。ところが、時間が経つにつれてほとぼりが冷め、2014年は100万人近くまで減ってしまいました。そろそろ新しい集客チャネルを開拓していかねば――そう考えたときに着目したターゲットが外国人観光客です。2012年に関西国際空港が第2ターミナルを開設してLCCのハブ空港になったことで、関西に多くの外国人がいらっしゃるようになっていました。ならば彼らを新世界に取り込むことで通天閣の入場者数を増やしていこうと、プロモーションをかけていきました。

画像: ――今、新世界の街を歩くと外国の方々を多く見かけます。外国人観光客が増えてきたのはいつ頃でしょうか。

と言っても我々には強力なネットワークがありません。そこで大阪観光局とのタイアップをいろいろと仕掛けました。イベントの開催や海外観光客限定の割引チケットの配布など、できることは何でもやりました。とにかく、人に来てもらわないといけない。通天閣のチケットをディスカウントして売ってでも、人さえ新世界に来てくれれば、地域が潤います。

人を呼ぶことは、我々の目先の利益だけではなく、地域の未来にもつながるのです。街の繁栄のためだったら、利益を度外視したディスカウントも辞さない――そういうスタンスでした。同時に、価格訴求は万国共通ですから、即効性もあります。結果、海外の方に気軽に来ていただきやすい環境づくりを進めることができました。今や中国や韓国をはじめ、東南アジアや英語圏からも多くの観光客にお越しいただいています。(第3回へつづく

「第3回:手薄だった「物販チャネル」の開拓」はこちら>

画像: 大阪 通天閣――潜在価値を引き出す経営
【第2回】「ビリケンさん」で全国から集客を

高井隆光(たかい りゅうこう)

通天閣観光株式会社 代表取締役社長
1974年大阪府生まれ。奈良産業大学(現・奈良学園大学)卒。1997年、マイカル(現・イオンリテール)入社。大阪の店舗で婦人服などを担当。2005年、通天閣観光に入社。2019年より現職。全日本タワー協議会幹事も務める。

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