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生き残った幸運と後ろめたさ
――藤原さんは満州で戦争末期を過ごしたことで終戦時に大変なご苦労をされましたが、日本に引き揚げてきたときはどのように感じられましたか。
僕が当時、子ども心に実感したのは、まず「生きて帰れてよかった」ということです。その思いはずっと持ち続けていましたね。一方で、そのことが後になって深刻な悩みの種にもなりました。
満州の国民学校でのクラスメイトは30名ほどでしたが、そのうち20名以上は前述した満州へのソ連軍侵攻によって幼い命を奪われました。何とか逃れた子も残留孤児になったりして、生きて日本に戻れたのは僕を含めてわずか3人ぐらいです。
そのことをはっきり知ったのは40歳を過ぎた頃です。国民学校の同窓生から聞かされたとき、僕はその場でうずくまって泣いてしまいました。たくさんの人たちの犠牲の上に自分だけが生き残ったという罪悪感が押し寄せてきたんです。
それ以来、僕は後ろめたさを感じながら生きてきました。以前から続けてきたボランティア活動に加え、満州引き揚げ者や残留孤児の方々の支援にも力を入れるようになり、日中親善活動を行っている一般社団法人国際善隣協会の理事や顧問として奉仕して現在に至ります。それがせめてもの贖罪になれば、という思いからです。
――難民時代には衝撃的な体験をされたそうですね。
ええ。ソ連軍の侵攻から逃げて、国境の安東(現在の丹東)という街にたどり着いたのが8月13日でした。ところがそこもソ連軍の手に落ち、国境を越えて朝鮮半島へ逃げることができなくなった。そのため1年数か月の難民生活を送ることになってしまいました。
その街で父は古書店の番頭を、母は闇市で食べ物を売り、僕も闇市でタバコ売りをして家計の足しにしていました。大変と言えば大変でしたけれど、市場へ行くと何かおいしいものにありつけ、物珍しい光景も見られ、好奇心に満ちた年頃の少年にとっては冒険の日々でした。現地のお祭りに参加したり、阿片窟にタバコを売りに行ったり、犯罪の現場を目撃したり……。知らず知らずのうちに大人の、それも悪徳の世界を垣間見ていました。銃殺刑を目撃したこともあります。中国の国共内戦の捕虜が鴨緑江の河原で銃殺刑に処されたときです。日本人が処刑されたという話も聞いたことがあります。
思い返せば恐ろしく衝撃的なことですが、当時はそれが日常で、慣れてしまっていましたね。ただ大人になってから、ふとした瞬間にその頃のことを思い出して涙を流すことがしばしばありました。
アメリカへのアンビバレントな思い
――無事に日本に引き揚げてきたあとは、仙台のご実家で生活されたのですね。
1946年の秋に日本へ戻り、本来なら小学校の4年生に編入するはずでしたが、難民生活の中でまともに勉強しておらず学業が追いつかないだろうということで3年生に入りました。戦後の日本社会は混乱の中にありましたが、難民生活の闇市での経験を思えば、はるかに平和だと感じたものです。
そして中学生の頃に、僕の価値観に大きな変化を与えた出来事がありました。10歳年上の姉がアメリカ人と結婚したことです。姉は、身内が言うのもなんですがとても頭のいい女性で、宮城学院女子専門学校という、宮城学院女子大学の前身となった旧制度の高等教育機関を卒業しました。国文学を専攻していましたが英語もよくできたようで、卒業後すぐに仙台にあった進駐軍の拠点で事務職に採用されたのです。満州で教員をしていた父ですら、すぐに仕事がなかったような時代に。
それが幸か不幸か、やがて仕事で遅くなったときなどに姉がアメリカ人に車で送られて帰ってくるようになります。あの時代ですから、母は世間体が悪いなどと反対していましたが、父は大らかに見ていたようで、そのアメリカ人はやがて僕の義理の兄になりました。
ただ当時の僕は多感な年頃でしたし、中学、高校と新聞部に所属し、世の中に関心を持っていたこともあって、自分の姉がアメリカ人に奪われたという、まるでヤマタノオロチに娘を差し出した老夫婦のような心持ちでしたね(笑)。アメリカ憎しと高校生の頃に反米運動に加わったり、大学では安保闘争に参加したりしていましたね。イデオロギーとして深いものがあったわけではないのですが。
――当時の学生は多かれ少なかれ左翼的な傾向にあったのではないでしょうか。
そうですね。そして就職して現実を知るわけです。僕の場合は時事通信社の記者となって経済というものを学び、カナダやアメリカに特派員として駐在するうちに、日本とアメリカの関係や、ソ連という国に対する認識も変化していきました。それこそ学生時代は共産主義国家が理想だと思っていましたが、現実を知ると「おっとどっこい、逆じゃないの」というふうに。それは思想的な転向と表現するような、大げさなものではありません。僕の青春の歩みというのは、戦後の日本社会の中で誰しもが辿った道そのものなんです。
そしてそうなると今度は、アメリカという存在が僕の中で変化のメルクマールになりました。姉を奪われたのは憎らしいけれど、個人として見たアメリカは友好的な国だし、義兄もすごく魅力的な人で、姉夫婦の子どもと僕の子どもはいとこ同士として仲良くしている。一方で、ワシントン特派員として見たアメリカは、ソ連と敵対しつつ、日本の頭越しに中国と握手を交わし、さらに第二次ニクソンショックで世界経済に大きな影響を与えた。僕にとってのアメリカは、日本にとってのアメリカと言い換えてもいいと思いますが、アンビバレントな存在でした。
戦後の復興からの高度経済成長も、日本人が優れているから起こせた奇跡だと言う人もいますが、注意深く見ると朝鮮戦争とベトナム戦争の特需の影響が大きかったことが分かります。それらが結果的に日本の得意な分野を育てることにつながった。アメリカのお陰で高度成長があった一方で、それが日米貿易摩擦の原因にもなったということです。
考えてみれば、日本と中国、日本とソ連(ロシア)の関係もアンビバレントな中で振り子が振れるような歴史を繰り返しています。「相寄る魂」とばかりに協調したり、競合したりを繰り返す、二国間関係というのはそういうものなのかもしれません。国のあり方について考える時、このことは欠かせない要素であると思います。(第5回へつづく)
撮影協力 公益財団法人国際文化会館
藤原 作弥
1937年仙台市に生まれる。旧満州安東(現丹東)で終戦を迎え、1946年11月帰国。1962年東京外語大学フランス学科卒業後、時事通信入社。オタワ・ワシントン特派員、編集委員、解説委員長などを歴任。1998年から2003年まで日本銀行副総裁、2003年から2007年まで日立総合計画研究所社長を務める。
著書に『聖母病院の友人たち』(日本エッセイストクラブ賞受賞)、『満州、少国民の戦記』、『李香蘭・私の半生』(山口淑子氏との共著)、『死を看取るこころ』、『満州の風』、『素顔の日銀副総裁日記』ほか多数。
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