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「第3回:父と共に大陸で経験した敗戦」
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成長を急いだゆえの失敗
――明治維新からの40年で富国強兵をめざし、列強の仲間入りを果たした日本ですが、続く40年でさらに強大な軍事大国をめざし、挫折します。どこで間違えたのでしょうか。
江戸時代250年間の遅れを一気に取り戻し、諸外国を追い越すためにはいろいろなことを急ぐ必要があったのでしょうし、一部の人々に権力を集中させて強権的に政策を進めることが功を奏した面はあると思います。現実に大砲を備えた艦艇で開国を迫られ、欧米列強の軍事力の脅威にさらされたわけですから、国家の威信を高めるには軍事力だ、という流れになったことは必然であったのでしょう。
日本は日露戦争に辛勝したことで朝鮮半島や満州における権益を得ただけでなく、欧米列強との不平等条約の改正を達成して、第一次世界大戦後には五大国の一角を占めるまでになりました。その行きすぎた成功が、日本人の能力への過信につながり、裏目に出てしまったのかもしれません。
成長を急ぐあまり強権的になったことに加え、過剰な自信、派閥の争いや功名心などの負の要素が絡み合って、第二次世界大戦へと後に引けない状況を招いてしまったのだと思います。
当時(大戦前)、国内と海外の状況を客観的、理性的に見て開戦すべきではないという意見も多く、研究者などのインテレクチュアルな人々に諮問した結果として反対意見も出されています。しかしそれも、聞く耳を持たなければ意味がないですね。
いわゆる大正デモクラシーの時代には薩長閥の政治から議会制民主主義に移行し、普通選挙の実現など民主化が進んでいます。一方で治安維持法が制定され、社会運動は抑圧されました。さらに世界大恐慌の影響もあって、腐敗した政党政治を廃して軍による国家改造に期待する世論が出てきたことが、五・一五事件、二・二六事件などのクーデターにつながったのだと思います。言論人が正論を唱えても封殺され、議論を尽くさず異論を力で抑え込むということが容認されてしまったのが問題だったのでしょう。
――終戦までの80年は藤原さんのお祖父様、お父様が活躍されていた時代ですが、お二人は当時の世相や社会についてどのような思いを抱いておられたのでしょうか。
祖父はジャーナリストでしたが、病気のため昭和初頭には新聞社を辞していました。特定のイデオロギーや世の中の動きにはあまり関心を向けず、民俗学分野の調査や執筆に心を傾けていました。暴力的な時代の端境期に言論人として現役ではなかったことは、むしろ祖父にとって幸せだったのかもしれません。他界したのは僕たちが満州から引き揚げてきた翌年、1947年です。
父も、言語民俗学者、今で言う文化人類学者としてジャーナリズムや思想活動とは一線を画す研究の世界に生きていました。日本語を含めたウラル・アルタイ系の言語とシャーマニズムを研究テーマとしていたものですから、フィールドワークで各地を転々としていたんです。岩手県や秋田県、さらに北朝鮮に渡って朝鮮語とシャーマンの研究をした後、モンゴル語に興味を持って満州の興安街(現在の中華人民共和国内モンゴル自治区ウランホト市)に赴き、陸軍士官学校で教師をする傍ら、自身の研究にいそしんでいました。当然、僕たち家族も付き合わされていましたから、迷惑と言えば迷惑な話ですよね(笑)。学術的な興味の赴くままに、自分の好きなことを好きなところで研究するという、放浪の研究者でした。
命からがら満州国を脱出
――藤原さんご自身、幼い頃を過ごした満州に強い思いをお持ちで、たくさんの著作を書かれています。
満州と聞くといつも想起するのは、僕と山口淑子さんの共著『李香蘭 私の半生』を原作とするミュージカル「李香蘭」のオープニングです。「13年しか続かなかった幻の国、マンチュリア」という歌詞をもの悲しいメロディにのせてヒロインが歌うところから物語が始まります。越路吹雪さんの親友でマネージャーも務めた岩谷時子さんが作詞された曲ですが、僕にとっての満州はこの歌詞に集約されています。
満州国は、多民族が協和する理想郷、「王道楽土」という理念を掲げてつくられた国です。最先端のインフラも整備され、軍人だけでなく経済人たちも期待を寄せていた面もあったでしょう。ただ建前として理はあっても実体は占領であり、実験国家として束の間の繁栄を見せただけで幻に終わってしまいました。
一方で、李香蘭が所属した満州映画協会のスタッフや俳優を戦後、東横映画が受け入れたことが東映の黄金時代に寄与し、また南満州鉄道株式会社、通称満鉄の先端技術は日本の新幹線に引き継がれるなど、満州国の遺産は戦後の日本にも貢献しました。
その満州で、僕は8歳から9歳にかけての約1年間を過ごしました。父は軍人ではなく文官の立場で、陸軍士官学校の教師として現地出身の幹部候補生に日本語を教えていたのです。若い頃、画家を志して東京藝大に入り、体を壊して退学したという過去もあるぐらい絵が上手で、さらに柔道は4段を持っていましたから、日本語以外に絵や柔道も教えていたユニークな教師でした。
敗戦の直前、満州はソ連軍の戦車部隊に攻め込まれました。士官学校の職に就いていたお陰で父はその情報をいち早くつかみ、僕たち家族を連れて8月10日の最終の貨物列車に飛び乗って満州を離れることができました。一緒に逃げることができたのは、士官学校の文官とその家族などの一部の人たち、おそらく300名もいなかったでしょう。
僕たちは中国大陸を南へ南へと逃げ、辛くも生き残ることができましたが、中国の国境の町で1年数か月の難民生活を送ることを余儀なくされました。一方で満州に残された方々のうち千数百名はソ連軍に虐殺されてしまいました。そのことを知ったのは、だいぶ後になってからなのですが。
儚く、僕にとっては懐かしくも哀しい、それが満州という国です。(第4回へつづく)
撮影協力 公益財団法人国際文化会館
藤原 作弥
1937年仙台市に生まれる。旧満州安東(現丹東)で終戦を迎え、1946年11月帰国。1962年東京外語大学フランス学科卒業後、時事通信入社。オタワ・ワシントン特派員、編集委員、解説委員長などを歴任。1998年から2003年まで日本銀行副総裁、2003年から2007年まで日立総合計画研究所社長を務める。
著書に『聖母病院の友人たち』(日本エッセイストクラブ賞受賞)、『満州、少国民の戦記』、『李香蘭・私の半生』(山口淑子氏との共著)、『死を看取るこころ』、『満州の風』、『素顔の日銀副総裁日記』ほか多数。
シリーズ紹介
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