「面倒な手続き」という社会課題
「引っ越しの手続きって、すごく面倒じゃないですか。電気、ガス、水道、通信、保険……すべての契約を自分で変更しなければいけない。でも、会社同士がブロックチェーンの証跡管理で契約者の情報をセキュアに連携できれば、解決できる問題だなと思ったのです」
そう語るのは、日立製作所で通信会社向けの営業を担当している齊藤紳一郎。ソサエティ5.0の実現をめざし、企業の枠を超えたデータ利活用を推進する一般社団法人企業間情報連携推進コンソーシアム(以下、NEXCHAIN)を設立した中心メンバーの一人だ。2018年に自身の引っ越しでこの「面倒くささ」を痛感した齊藤は、「こういうだれもが面倒に思うことって、社会課題じゃないか?」と気づいたと言う。ちょうど、営業先のKDDIと協働でブロックチェーンを使って何か新しいビジネスができないか、構想を練っていた時期だった。
「引っ越し手続きの問題は、企業同士が企業の枠を超えてデータを連携し、新しいことを始めるには最適の題材だなと思いました。そのためには生活者目線で厳密な証跡管理が必要となり、ブロックチェーンの特性が生きてくるのです」
当時、齊藤はブロックチェーンと名の付くイベントに片っ端から参加し、知見と人脈を広げていった。あるセミナーで、講師として登壇していた積水ハウスの社員と名刺交換し、ブロックチェーンの活用と企業間でのデータ連携について話したところ意気投合。その後、何度かディスカッションを重ねるうち、積水ハウスが持つ賃貸住宅事業に齊藤は着目した。「賃貸契約の情報を連携することで、KDDIが提供する通信、電気、ガスのサービス申し込みを簡素化できるのではないか?」と思いついたのだ。
このアイデアをKDDIに持ち込んだところ、「それは可能性があるかもしれない」となり、積水ハウスとの3社で議論。引越し手続きの簡略化に向けたサービスの共同開発プロジェクトが発足した。業種の異なる3社でサービス実現への検討を重ねていく中で、やがてこんな声が挙がるようになった。
「サービスは、選択肢がたくさんあって、生活者が選べるようにならないと流行らない」
「電力やガスなどの生活インフラの会社や保険会社とも、もっと連携したらどうだろう?」
NEXCHAIN会員企業に共通する、ネガティブな体験
日立・KDDI・積水ハウスの3社は2019年3月、引っ越し手続きのワンストップサービス提供に向けた共同検証のニュースリリースを出し、プロジェクトへの参加企業を募った。するとガス会社2社、保険会社3社が手を挙げ、合計8社となった。
「このタイミングで、『これはオープンイノベーションの営みだから、企業がフラットに話し合える組織体をつくったほうがいい』という結論に達しました。データを使って何か新しいことをやろうと言っても、『自分から言い出すとデータを提供しなければいけないよな』みたいな話になりがちなので、もっとフラットに議論できる場所(組織体)を作りましょう、と。度重なる議論の結果、参画する企業の公平性と透明性を担保するために、独立した一般社団法人を設立することにしました」
こうして2020年4月、NEXCHAINが発足。その時点で電力や引っ越し、金融などの業界からも仲間が加わった。齊藤に取材した7月時点で会員企業は20社を超え、コロナ禍による自粛期間中にもかかわらず、問い合わせは後を絶たないと言う。確かにブロックチェーンに注目する企業は多いが、なぜNEXCHAINが共感を呼ぶのか。齊藤はこう分析する。
「ブロックチェーンを使うかどうかよりも、『引っ越しの手続きを簡単にしましょう』という発想のもとにいろいろな企業が集まって、新しいことを実現できる。その世界観に共感していただけているのかなと思います」
ただ、個人情報を複数の企業で扱うのだからデリケートな問題には違いない。自分の個人情報が企業間で連携されることへの生活者の不安や、果たして安全にデータを利活用できるのかといった企業の懸念に、NEXCHAINはどう答えるのか。
「『データの持ち主はあくまでもユーザー(生活者)』がわたしたちのポリシーです。ユーザーから利活用の許諾をいただけなければ、個人情報を他社と連携できません。許諾はサービスごとにいただくので、例えば引っ越し手続きのワンストップサービスで使わせていただいた個人情報を、ほかの目的に活用することはできませんし、ユーザーが指示した連携先の企業以外には情報は連携されません。
NEXCHAINがめざしているのは、とにかくユーザーが利便性を感じるサービスを創ることです。データを利活用したい企業の論理だけで進めるべきものではありません。個人情報に関するユーザーへの配慮は絶対条件です。そうでなければ利用許諾をいただけませんし、たとえ社会実装しても使われないサービスになってしまいます。むしろ、データを拠出する企業側にもレピュテーションリスク(※)がともなうので、NEXCHAINというコミュニティを運営する立場としては譲ることのできないポイントです。
データの管理については、一人ひとりの個人情報が、いつ本人から利用許諾をいただけたもので、許諾を取得したのはA社で、いつA社とB社の間で何を連携されたのかといった証跡を逐一たどれるしくみになっています。データの耐改ざん性に優れたブロックチェーンならではの特性から、こういった管理が可能なのです」
※企業への否定的な評価・評判が広がることで、企業の信用やブランド価値の低下を招き、損失を被るリスク。
NEXCHAINへの参加を希望する企業の多くは、何らかの形でデータ利活用に取り組んできた。各社の担当者は一様にして、あるネガティブな体験をしていると言う。
「皆さん、ビッグデータを使って何か新しいビジネスを生み出そうとしたけれど、自社保有のデータだけではできることに制約があって悩んでいる方々なんですね。結局のところ、1社だけで集められるデータは種類が限られていて、本当に新しいサービスを生み出すには社外からデータを融通しないといけない。やりたいことは明確だけど、1社だけではデータを集められない。そういうジレンマを抱えている企業にとって、NEXCHAINという場が必要なのです。異なる業種の人たちとつながることで、自社にはないデータを使うことができるし、社内だけでは考えもつかなかったサービスが生まれるかもしれません」
そう語る齊藤自身、日立の営業としてあるフラストレーションを抱えていた。
仕事は自分たちでつくらないと面白くない
もともと通信端末の販売会社に勤めていた齊藤は、2007年に日立に転職。前職での経験を活かして通信会社向けの営業を担当してきたが、日立で10年近く働き続ける中で、1つの思いが芽生え始めていた。
「お客さまに『お困りごとや課題をお聞かせください』『こんな面白い技術がありますが、御社のビジネスでの使い道を一緒に考えませんか?』ってお願いする自身の営業スタイルを、変えたい」
今から数年前のある日の仕事終わり、当時30代後半にさしかかっていた齊藤は、年齢の近い同僚に胸の内を吐露した。すると、その社員も同じ思いを抱えていた。
「『このままだと面白くないね』と。要するに、与えられた課題を解決するのは得意だけど、自ら価値を創造するのは苦手。そうではなく、わたしたちが常にお客さまの1歩先を行って、『こんなビジネスどうですか?』って提案できるようにならないと、日立の独創性って出せないよね……そんな話をしました。せっかく日立が持っている技術というリソースを活かして、『このビジネス、俺たちが考えたんだぜ』って誇れる仕事を1つでもやろうよ、と」
そこから徐々に若手の仲間を集め、前述のKDDIや積水ハウスなどとのコンソーシアム設立へと齊藤たちは奔走。社外を巻き込んだ行動には相当な困難をともなったはずだが、当の齊藤は「ビジネスパーソンとして経験値が貯まることを、自分が中心になってやれる。そんな機会はそうそうないし、自らお金を払ってでもやるべきだと思った」と振り返る。もちろん、社外だけでなく日立の上層部にも何度も働きかけたが、さすがにすんなりとは行かなかった。「なぜ一般社団法人が必要なのか?」「そもそも日立の事業への貢献価値は何なんだ?」。齊藤がプレゼンするたびに、上層部からは鋭い指摘が飛んだ。
「そこは、参画企業さまに味方になっていただいて(笑)。NEXCHAIN設立のコアとなった(日立を除く)7社は、日立にとっても重要なお客さまばかりなんですよ。『〇〇社様もこのコンソーシアムは必要だとおっしゃっています』『じゃ、やるしかないな』ってなるじゃないですか。
引っ越し手続きの話もそうですが、今の世の中に顕在化している社会課題は、もはや1社では解決できないものばかりです。それこそオープンイノベーションを起こさないと解決できないような、手ごわいものしか残っていないのです。NEXCHAINがめざしている社会課題の解決は、日立が掲げている『社会イノベーション事業』にも通じます。日立が旗振り役を担うのは必然だということで、最終的に社内の上層部は納得してくれました」
NEXCHAINは5年以内に500社の参加をめざしている。あいにくのコロナ禍であり、まだ発足したばかりということもあって運営は手探りだが、軌道に乗れば隔週でディスカッションを行い、新しいビジネスをどんどん生み出していきたいと齊藤は意気込む。
「『御社のデータを活用させていただければ、こんなに便利なサービスができます。御社のユーザーにとってもうれしいですし、御社も顧客満足度が上がり、ひいては収益につなげることができます』と、こちらから提案を持ちかける立場に変わることができる。自分たちの手でビジネスをデザインできるようになる。そんな面白い仕事ができることへの期待が、今めちゃくちゃ大きいです」
実際にNEXCHAINからは、すでに新たな検討テーマが生まれ、実用化へ向けた準備が進んでいる。次回は、社会課題を解決する3つの検討テーマについて、引き続き齊藤に話を聞く。
齊藤 紳一郎(さいとう しんいちろう)
株式会社日立製作所 社会プラットフォーム営業統括本部 第二営業本部 第一営業部部長代理。1980年、東京都生まれ。メーカー系通信端末販売会社を経て、2007年日立製作所入社。通信会社の基幹システム構築プロジェクト及びコールセンター等のアウトソーシングサービスの立上げプロジェクトに従事。2017年よりエンタープライズ領域におけるブロックチェーンのビジネス適用の検討に参画。Society 5.0のめざすつながる社会の実現へのブロックチェーン適用の可能性を検討中。2020年4月発足の一般社団法人企業間情報連携推進コンソーシアム「NEXCHAIN」立ち上げメンバー。
「第2回:ブロックチェーンで解決する、引っ越し・相続・基地局の困りごと」はこちら>
【イベントレポート公開のお知らせ】NEXCHAINオンラインセミナー「企業間連携の現在地」
2021年3月12日に開催したNEXHCAIN主催オンラインセミナー『企業間連携の現在地』のイベントレポートを公開。
NEXCHAIN取り組みの現在と今後の展望、DXを推進する経団連DXタスクフォース浦川座長のご講演や参画企業様のパネルディスカッションなど、オンラインセミナーの4セッションのアーカイブ映像と各講演内容のエッセンスを紹介。
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