作っても作っても捨てられた
――イタリア料理からフランス料理への転向は、料理人の世界ではよくある話なのですか。
浜田
当時はまさにイタ飯ブームだったので、どんどんお店が増えていました。街ではイタリア料理は大人気で常に満席。フランス料理からイタリア料理に行く人は多かったけれど、逆は珍しかったようです(笑)。
――転向後、思い通りに料理はできましたか。
浜田
それがまったくダメでした。何を作っても、話にならないと全部その場で捨てられました。専門学校を出たばかりの若い子たちは簡単にソースを作るのに、24歳、キャリア6年の僕は同じ土俵に上がることもできなかった。
イタリア料理でそれなりにやってきていただけに、一番辛い時期でした。
今まで自分は何をやっていたんだろう、できると思ってここ(フランス料理)に来たのに…ってね。
――それをどのように克服されたのですか。
浜田
自分が彼らに追いつき、追い越すには、彼らの休んでいる間に自分の経験値を上げ、彼らが持ってない技術も身に付けなければならないと思い、全ての休日を有名店での皿洗いに当てました。
洗い場で学んだこと
――なぜ皿洗いだったのですか。
浜田
料理人として他店に入ることは難しくても、皿洗いなら入りやすい。無給でいいから働かせてほしいとお願いすれば、有名店でも入りやすいですからね。相手にとっても僕にとってもWin-Winの関係になれるからです。
洗い場はあらゆる鍋や皿が集まるので、残ったソースを陰で舐めるのは当たり前。部外者の立場で厨房全体を見渡せるので、シェフの技術やその店ならではの仕組み、人の動き、人の使い方、食材の選び方から保管法まで。あらゆるものを見ていました。
フランス料理はどのように成り立っているのか、どういうソースが本当においしいのかなども、半年から1年で理解できるまでになりました。
――食べ歩きから皿洗いですか!? 高校を出てから一日も休んだことがないのでは? そこまでできる原動力は何でしょう。
浜田
僕は学生の頃サッカーにのめり込み、選手になりたいというほど体力に自信がありました。それに実家の両親は昔も今も、365日、休みなく朝4時くらいから遅くまでずっと働いているのです。子どもの頃どこかに連れて行ってもらった記憶はありません。それが普通だと思っていたのです。
他の人が何をしているかなんて関係ない
――同世代でそこまでストイックに働く人はいないのでは。
浜田
そうですか? 僕にとって他の人が何をしているかなんて関係のないことなんです。
今も昔も、この世界に入った時から目標は世界。周りとか、日本の誰かが何をしているかより、マルコンさん(レジス・マルコン=キノコの魔術師と称される世界的に有名なフランス料理の三ツ星シェフ)なら、こんな時にどうするだろう? レネさん(レネ・レゼピ=何度も世界一のレストランに選出されたデンマーク・コペンハーゲンにあるノーマのシェフ)だったらどうだろう? そんなことばかり考えて、やるべきことをしているだけです。
原点は同じ。彼らが休んでいる時に僕が働いて勉強しないと、多分一生追いつくことはできないし、技術も身に付けられないからですよ。そのうえで、彼らができないことを僕がやらないといけない。
世界で活躍する日本人シェフは少ないので、僕がやらなければならないことがたくさんあると思っています。世界をめざす限り、やっぱり日本人ってスゴイよねって言われたいですからね。
――料理コンクールへの参加は積極的にしていたのですか。
浜田
埼玉のホテルは、24時間料理ばかりしている人の集まりでした。会社も各種コンクールへの出場を推奨していたので、年に2~3回のペースで挑戦していました。でも、まったく上位に食い込めない。自分のどこがダメだったのかも、優勝者の料理のどこが良かったのかもわからないことが続いていました。
2004年、ボキューズ・ドール日本大会のお話をいただいたのは、スーシェフ(副料理長)の時でした。今まで散々落ちてきたけれど、どこかで一発逆転をしたい。これが最後のチャンスと思い挑戦したら、優勝することができました。
――世界的に有名な大会での優勝は自信が付いたでしょうね。
浜田
このコンクールは9年以上の経験がなければ難しいといわれ、歴代の優勝者は若くても30代後半。どこかでシェフかスーシェフをしている人たちばかりでした。そこに20代で入ったという喜びはありました。
意気込んで翌年の世界大会に日本代表として出場したわけですが、結果は参加24か国中12位。上位の国のレベルの高さを思い知らされたと同時に、僕が作ったパテ・アン・クルートでは、まったく勝負にならないことを悟りました。
なぜなら、パテ・アン・クルートは伝統的なフランス料理なので、フランス人にとって家庭料理なのです。それを日本人が作るということは、フランス人が日本のだしを取るようなもので、文化にないものを作る=物まね的な評価を受けてしまうわけです。
これからは自分にしかできない料理を作ることが大切だと痛感したのです。
星のや東京 ダイニング「Nipponキュイジーヌ」夏メニュー
星のや東京は、東京・大手町という金融・経済の中心にある日本旅館である。「和のおもてなし」が体験できるとあって、土地柄、世界各国の企業経営者やエグゼクティブをゲストとして迎えている。
青森ヒバの一枚板の扉が開かれた瞬間、白檀を調合した香りが都会の喧騒を忘れさせてくれる。玄関で靴をぬいで上がり框に足をかければ、あとは、畳敷きの館内で日本の伝統文化に触れることができる。17階の最上階には温泉があり、吹き抜けの露天風呂から真上を見れば都会の四角い天空がのぞく。地階には大きな石のオブジェが配置され、地層をイメージした土壁の間を抜ければダイニングに至る。宿泊客だけが味わえる「Nipponキュイジーヌ」の舞台。
夏メニューのコースの一部をご紹介すると、五味(塩・酸・苦・辛・甘)を楽しむ「五つの意思」、酒盗と蕗のソースで味付けした鰹のたたき、鮪のほほ肉のコンフィ、毛蟹とウニのリゾットなど。いままで出会ったことのない香り豊かな味わいが心を満たす。魚と野草、野菜だけの限られた食材で考え抜かれた料理は、世界にふたつとないここだけのもの。非日常のやすらぎの感覚がダイニングにも息づいている。
【星のや東京】
東京都千代田区大手町一丁目9番1
TEL.0570-073-066(星のや総合予約)
浜田統之 Noriyuki Hamada
1975年、鳥取県生まれ。18歳からイタリア料理の世界で腕を磨き、24歳でフランス料理に転身。2013年、ボキューズ・ドール国際料理コンクールフランス大会本選で世界第3位となり銅メダル獲得。2016年、星のや東京料理長。2017年、ボキューズ・ドール国際料理コンクール30周年記念ガラディナーで、約1,500名の世界の食通を前に魚料理を提供した。
シリーズ紹介
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一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
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社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
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