ビッグデータ利活用の有望領域としてマーケティングへの注目が集まる
平成25年版情報通信白書によると、「ビッグデータ活用が有望である領域」に対する調査結果において上位を占めているのが、マーケティング、経営管理、商品企画・開発、営業、販売促進といった項目だ。
本パネルディスカッションのモデレーターを務めた日立製作所の安田 誠は、「ビッグデータのアナリティクスによって、お客さまや市場をより深く理解し、営業や販売促進を行うことへのニーズが高まっています」と示唆した。
こうした時代の流れを汲み取る形でセッションの前半では、最近のマーケティング手法の動向、ビッグデータを処理するためのITの動向、規制や法律の観点からの留意点といったテーマから、3名のパネリストによるプレゼンテーションが行われた。
アナリティクスのマーケティング領域への活用の方向性
株式会社博報堂 エンゲージメント・ビジネス・ユニット マーケティングプラットフォームソリューション部 部長 山之口 援 氏
企業における事業の目的は、顧客の創造にあります。そこでの基本的な機能となっているのが、顧客が製品に対して何を求めているのか、いつどこで求めているのか、いかなる価格ならば進んで支払ってくれるかを教える「マーケティング」と、より優れた、より経済的な財を創造する「イノベーション」の2つです。 この観点から生活者を取り巻くコミュニケーション環境をとらえると、ソーシャルメディアやスマートデバイスなどの普及によるデジタル化の波によって、大きな変化が起こっています。
オンライン上で生活者が行ったキーワード検索(認知・意向)、広告バナーやリンクのクリック(行動)、それによって訪れたWe bサイトからの資料請求や購買など、さまざまなデータを相互につないでいくことで、「個」として把握することが可能となりました。また、「個」を捕捉したマーケティング活動によって、かつてない高細密で高精度な施策の実行ならびに、その成果を測定することが可能となりました。
すなわち、マーケティングのパラダイムシフトが起こっています。これまでのマーケティングは、例えば「30代男性、アクティブ、ホワイトカラー」といったマス基点のターゲットに対して、「超爽快!」といったイメージで投網をかけるようなものでした。これからのマーケティングでは、実行動に対するピンポイントの提案が可能となるのです。
そこで求められるのが、ビッグデータの利活用です。「蓄積されたデータが十分に活用されていない」「市場動向・顧客の把握に時間がかかっている」「マーケティング施策の効果がきちんと把握できていない」といった課題を、ビッグデータを用いることで解決。アナリティクスを業務プロセスに組み入れ、マーケティングの幅広い機能をつなぐことで、より高度なマーケティングを実現することができます。
したがって、これからのマーケティングを考える上では、対チャネルマーケティング(営業)と、対生活者マーケティング(プロモーション)の両面から強化を図っていく必要があります。
「市場や顧客を深く知るためのアナリティクス」を支える技術
株式会社日立製作所 横浜研究所 情報サービス研究センタ センタ長 赤津 雅晴
デジタル上で把握した「個」の活動から、需要予測や嗜好分析、ターゲティングといったマーケティングソリューションを導いていくためには、大きく4点の技術要素があります。大量データを高速に扱えるようにする「データ処理」、その上で効果的なアナリティクスを実践する「分析アルゴリズム」、エンドユーザーに現状や分析結果をわかりやすく示したり、アナリストに対してさまざまな洞察を与えて発想を広げたりする「可視化」、不正なデータ利用を防止する「セキュリティ・プライバシー」です。
可視化に関して、日立では「インフォグラフィックス」と呼ばれる技術に注力しています。これはインフォメーションとグラフィックスを掛け合わせた造語で、例えば鉄道で運転見合わせが起こった際に、影響を受ける路線を駅の大型ディスプレイで強調・色分け表示するといった例があります。
分析アルゴリズムに関しては、来店者に付けていただく名札型センサーからとった行動履歴データやソーシャルメディアデータといった個の活動のデータを活用した分析技術を開発しています。具体的には、これらのデータとPOS データを組み合わせて分析することで、トレンド予測をしたり、店舗業績向上の施策を導出したりすることが可能になります。
データ処理に関しては、自社従来比で約100倍の性能向上を実現した高速データアクセス基盤「Hitachi Advanced Data Binder プラットフォーム」(*)を提供しています。大量データからの部分抽出や集計処理を高速化し、データマートレス化を実現するものです。喜連川 東大教授/国立情報学研究所所長・合田 東大特任准教授が考案した「非順序型実行原理」が特徴です。これは、データアクセス処理(SQL)を非決定的な処理順序で実行するものです。
その他にもユニークなところでは、「EnraEnra」と呼ぶ類似ベクトル検索プラットフォーム(類似画像検索技術)を開発し、Web画像検索や監視システムなど、さまざまなビジネスシーンでの活用を進めています。
*内閣府の最先端研究開発支援プログラム「超巨大データベース時代に向けた最高速データベースエンジンの開発と当該エンジンを核とする戦略的社会サービスの実証・評価」(中心研究者:喜連川東大教授/国立情報学研究所所長)の成果を利用
プライバシー・個人情報保護法の課題
弁護士法人 英知法律事務所 パートナー・弁護士 森 亮二 氏
個人情報保護法において「個人情報」は、「生存する個人に関する情報で、本人が特定できるもの」と示されており、「識別性」が必要とされています。ということは、識別性がなければ、すなわち匿名化されていれば、同法の違反にはあたらずセーフとなるのでしょうか。
ここで考えなければならないのは、同じ個人情報でも、Aから見れば識別性があるが、Bから見れば識別性がないというケースです。識別性は相対的に判断されるものであり、Aにおいては個人情報だが、Bにおいては個人情報でない、ということがあり得ます。
例えば、Aが自社の顧客データを匿名化してBに提供しようとする場合、Bでは、匿名化によって誰の情報かわからなくなっているので、個人情報ではありません。しかし、A側で匿名IDの対応テーブルなどにより、匿名化した情報と匿名化する前の顧客データを結びつけることができる場合には、匿名化した情報もAにとっては個人情報であり、これをBに提供する際には、第三者提供の規制(原則として本人の同意が必要)を受けます。
また、個人情報保護法とプライバシー侵害は、別々のルールで運用されていることも重要なポイントです。個人情報保護法は、国と事業者の関係を決めたルールです。ルール違反があれば、事業者は国から報告を求められたり、行政処分を受けたりします。これに対して、プライバシー侵害は、事業者と消費者の間のルールです。情報漏えいなどがあった場合、消費者が事業者を訴える際の理由となるのは、プライバシー侵害であって、個人情報保護法の違反ではありません。
個人情報を含んだ情報を扱う際には、こうした事情を十分に理解した上で、上手な利活用を考えていく必要があります。
個人情報保護法における「識別性」をいかに考えるか
ビッグデータによって可能となる「個」を把握したマーケティングにおいて、企業側には何が許され、どのような対応を行うべきなのか。そして、「個」に対するアプローチとプライバシー保護を両立させることは可能なのか――。セッションの後半では、こうしたテーマから討議が行われた。
まずは日立の赤津が、セキュリティとプライバシー分野の取り組みとして、「検索可能暗号」という技術を紹介。「同一データであってもランダムに異なるデータに暗号化し、そのまま復号化することなく元データの一致を検出することができます」と説明する。
「こうした暗号化のような技術もソリューションのひとつになりえるのでしょうか」という安田の問いかけに、英知法律事務所の森氏は、次のように答える。
「たとえ暗号化したデータであっても自社内で復号化が可能である以上、法的には識別性があると判断されてしまいます。ただ、個人情報保護法に関しては、100%の識別性の排除を求めるのではなく、一定の範囲内で外部への情報提供を認めていこうという方向での法改正への機運も高まっています。そうした中でますます重要となるのが、法制度と技術の両面からの安全性の確保であり、データの暗号化といった技術についても研究を進めていく価値は十分にあると思います」
ただし、仮に個人情報保護法が改正されるとしても、それはあくまでも将来の話であり、企業にとっては現状の法制度の遵守を前提とした中で、よりよい情報活用のあり方を見いだしていく必要がある。その意味から森氏が最も重要なこととして強調するのが、「透明性の確保」であり、次のような留意点を示す。
- 情報取得や提供における事実、方法をわかりやすく説明する。
- 事実と違う説明をしない。
- プロジェクトの実施前に仕組みを公表して、反応を見るという手もある。
その間にオプトアウトができる。 さらに森氏は、安全管理の取り組みの重要性を説くとともに、「事業者間をまたいだパーソナルデータの統合は、消費者があらかじめ想定できる場合以外は危険」であること、「サービス提供(利用目的)に不要な情報の取得・保存・統合・解析などを避ける」といったアドバイスを行った。
“驚き”や“感動”と出会える新しいマーケティングを創造
「個」を把握したマーケティングは斬新であるが、識別性をなくすこと自体がマーケティングの質を下げるわけではなく、時代の流れに逆行するわけでもない。
「『個』を対象にすることで確度の高いアプローチが可能になりますが、一方でプロモーションが複雑になるほどコストが上昇するのも事実です。費用対効果のちょうど良いバランスのとれたところでセグメンテーションを行うことも、ビジネスとしては考えていかなければなりません」と、博報堂の山之口氏は語る。
また、ネット通販サイトなどではすでに「個」を対象としたリコメンデーションが行われているが、それがあらゆるマーケティング手法を凌駕するとは限らない。
「一人の生活者の立場になってみると、自分のこれまでの購買履歴の延長線上にあるもの、あるいは自分と似たような属性や嗜好を持った人と同じものを買いたいわけではありません。消費は“楽しみ”でもあり、今までまったく選択の範疇になかった、価値観を根本から変えてくれるような商品やサービスと出会える体験も非常に重要です。そうした“驚き”や“感動”を提供していく上で、『個』を特定することは必ずしも必須要件ではなく、ある程度まとめられた集団(ターゲット)に対してもアプローチや市場開拓は十分に可能なのです」と山之口氏は言葉を続ける。
いずれにしても、個人情報に限らずどんなデータを扱ったり、分析したりする上でも何らかの制約はあり、それに縛られていては、前に進むことはできない。今できることは何なのかを、柔軟な思考のもとで探ることが重要と言えそうだ。
「技術だけで新しいソリューションを生み出すことはできませんが、技術なくしてイノベーションを起こすこともできません。マーケティング部門と密接に絡み合った技術開発を進めていく取り組みの中から、ビッグデータ利活用におけるアナリティクスも進化していくのではないかと考えています」(赤津)
「一人ひとりに寄り添ったサービスは、消費者にとって、とても魅力的なものになります。そのためにも“安心”は欠かせません。プライバシー保護に気を配ったサービスで、日本企業の皆さまには国際競争を勝ち上がっていただきたいと思います」(森氏)
「マーケティングには売り込みたいがための施策というイメージがありますが、現在のマーケティングで議論していることの本質は、より大きな“価値”をどうやって生み出していくかという点にあります。それはまた企業が一方的に提供するものではなく、お客さまと一緒になって作り上げていくものであるはずです。そのプロセスを支える基盤技術として、ビッグデータ利活用がますます大きな意義をもってきます」(山之口氏)
パネリスト3名による上記のようなコメントを締めとして、本パネルディスカッションは幕を閉じた。
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