シリーズ「禅のこころ」を連載されている全生庵住職の平井正修さんに伺いました。歴史小説を愛好するという平井住職、その読書遍歴にはやはり禅の精神を垣間見ることができます。
歴史を背負うご本尊とともに
東京谷中、地下鉄千駄木駅の真上に位置する団子坂下の交差点から谷中霊園へと続くゆるやかな坂は、付近の町名から「三崎(さんさき)坂」と呼ばれている。池波正太郎の小説には「首ふり坂」の名で登場するこの坂の中ほど、白壁の塀に囲まれて端正な姿で建つ禅寺が、平井正修さんが住職を務める全生庵だ。
全生庵は1883年に、幕末の英傑として知られる山岡鉄舟によって建立された。その5年後に病のため53歳で世を去った鉄舟には、どのような思いがあったのか。平井住職はこう話す。「幕末から明治はじめにかけての動乱で国のために命を落とした多くの英霊たちの菩提を弔うため、鉄舟居士は当庵を創建しました。そこには、西洋化が推し進められるなかで日本の精神を守り伝えていきたいという思いも込められていたといいます」
全生庵の歴史は創建から今年(2022年)で139年になるが、ご本尊の葵正観世音菩薩(あおいしょうかんぜおんぼさつ)の歴史はそれよりもさらに長い。欽明天皇(509~571年)の御代(みよ)に天竺から伝わった霊像であるとも、平安時代後期の高名な仏師の作であるともいわれる、由緒ある観音菩薩座像だ。
「きちんと修復を重ねられてきたため一見それほど古そうではありませんが、1000年あるいは1500年を超える歴史の中で、いくつかの寺院に座を移しながら、幾度もの戦火をくぐり抜けてきた尊像です。その間、どれほど多くの人々の声を聴き、救いとなってきたのかと思うと、深い感慨がわいてきます」
そうした長い歴史を背負うご本尊に、平井住職は子どもの頃から毎日手を合わせてきた。「そのことが影響しているかどうかはわかりませんが、昔から歴史を学ぶことが好きで、読む本も歴史小説が大半を占めてきました」
山岡鉄舟に見る禅の精神
歴史上の人物で気になる人がいれば、関連する書籍を読んでみる、調べてみる。するとまた気になる人や物事が出てきて…と興味の赴くままにさまざまな歴史小説、歴史書を手に取ってきた。平井住職はその過程で「物事を多面的に見る」ことの大切さに気づかされたという。
「歴史上の出来事は、史実であっても、誰の視点から見るかによってその意味や形がまったく異なります。歴史小説などは作者の史観に想像が加わり、事実と異なることも書かれているでしょう。そのため、これは歴史に限らず言えることですが、一歩引いてさまざまな角度から眺め、1つの考えにとらわれないことが大切です。それに気づいてから歴史小説がよりおもしろく、自由に楽しめるようになりました」
読書遍歴において数多くの偉人傑士の生涯にふれてきた平井住職が、中でも心惹かれた人物は、やはり全生庵にゆかりの深い山岡鉄舟だった。「物心つかないうちから鉄舟居士の話を聞いて育った私にとっては、血のつながりはなくとも実のひいおじいちゃんのように親しみを感じる存在です。歴史上の大人物としても、また禅という道の先達としても、鉄舟居士から学べることは、まさに汲めども尽きぬ泉の如しです」
鉄舟は幕末の江戸本所に生まれ、飛騨高山で育ち、十代で両親を亡くす。その後、山岡家の養子となって徳川幕府に、明治維新後は明治天皇に仕え、剣・禅・書の道を究めた。江戸城無血開城では西郷隆盛と勝海舟の会談がよく知られているが、それに先立ち命がけで西郷と談判し、事前交渉をまとめ上げた陰の立て役者が鉄舟である。
「西郷は鉄舟居士の人物を認め、『命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に負えないが、そのような人でなければ国家の大事は成せない』と評しています。そうした無私無欲な姿は、禅の精神を体現しています。鉄舟居士の生きざま、言行にふれることは、禅の専門書を読むのと同じかそれ以上に、禅のこころを知ることにつながるでしょう」と話す平井住職。鉄舟の生きざまを知ることができる歴史小説として、次の3作品を紹介してくれた。
鉄舟の生きた姿を感じる
まず鉄舟を主人公とした、山本兼一著『命もいらず名もいらず』(集英社文庫)。少年時代から、禅定に入ったまま人生の幕を閉じるまでを描いた上下巻からなる長編である。「書名のとおり高潔の士として生きた鉄舟居士の一生が生き生きと描かれ、引き込まれます」
主役ではないがキーマンとして登場するのは沖方丁著『麒麟児』(角川文庫)。江戸城開城をめぐる西郷隆盛と勝海舟の交渉劇に焦点を絞り、難交渉を妥結に導いた鉄舟の活躍が描かれている。また、葉室麟著『蒼天見ゆ』(角川文庫)は、明治時代に起きた「日本最後の仇討ち」という実話を元にした小説。主人公は鉄舟の剣術道場に入門し、剣術だけでなく心も鍛えられる。
「歴史小説のよいところは、歴史上の人物の人となりや息づかいがリアリティをもって感じられることですね。一方で私からすると、小説に描かれる鉄舟居士は格好よすぎる印象です。鉄舟居士もまた人間であり、完全無欠な聖人ではない。だからこそ凄いのです」。平井住職は鉄舟の実像も知ってほしいと強調する。
鉄舟については、生前に本人が書き記した資料が少ないため、世に伝えられていないことも多かった。そこで、没後に全生庵へ寄贈されたさまざまな資料などを基に、第三世住職の圓山牧田和尚が20年もの歳月をかけて正伝『鐵舟居士乃真面目(てっしゅうこじのしんめんもく)』を書き上げ、1918年に刊行した。それを平井住職が現代語訳した『最後のサムライ 山岡鐵舟』(教育評論社)は、鉄舟の実際の言行にふれることができる一冊だ。「小説と正伝の両方を読むと、鉄舟居士の生きた姿が立体的な像を結ぶことでしょう」
仏教と禅を知るために
鉄舟を知ると、その生き方の軸となった禅や、禅の根幹にある仏教思想についてもより深く知りたいと感じるかもしれない。そうした読者へのおすすめの本として、平井住職は次の二冊を挙げる。
一冊目は友松圓諦訳『法句経』(講談社学術文庫)。法句経は釈尊の教えを韻文形式でまとめた初期仏教の経典の1つである。経典といっても難しいものではなく、その内容はいわば釈尊の人生訓である。「お釈迦様が体験から得た『生きた言葉』なので、とても心に響きます。ふとした時に手に取ると、同じ詩句でもその時の心の持ちようで受け止め方が違ったり、それまでわからなかった言葉が肚落ちしたりする、示唆に富む経典です」
もう一冊は平井住職の著作『心がみるみる晴れる 坐禅のすすめ』(幻冬舎文庫)。禅は公案などから難解なイメージを持たれがちだが、頭で知るものではないと平井住職は言う。「禅に関する書物には、臨済宗の開祖、臨済義玄の言行をまとめた『臨済録』などもありますが、鉄舟居士は弟子にそれらの書物を知識として読むのではなく、実際の行動や生活に生かすことが大切だと教えました」
自身も、禅の修行を行った静岡県三島市の龍澤寺でそのことを叩き込まれた。「修行道場に入門すると、まず『書を捨てよ』と言われます。経典を読んだだけで知ったつもりになるな。その言葉を、自分の体を通して、体験を通して生きた言葉としなければならない、という意味です。ですから禅を知りたいと思ったら、書物を読むだけでなく実際に坐禅をしてみないことには始まりません」
同書では坐禅の意味から家で行う坐禅法まで、わかりやすく解説している。ただ実際に坐禅をしてみたい人は、まず坐禅会などに参加して禅僧から指導を受けてほしいと平井住職は話す。「最初から自己流ではうまくいきません。禅僧をお手本にして真似ることが学びの第一歩です。それを続けることで、やがて自分のかたちになっていきます」
坐禅会は全生庵でも行っているほか、最近はオンラインで参加できるものもある。「鉄舟の言行に見る禅のこころも、釈尊の言葉も、学ぶだけでなくそれを生かすことに意味があります。実際に坐ってみることは、その助けとなるに違いありません」
全生庵 日曜坐禅会
毎日曜日18時~20時
詳細・申し込みについては座禅会ウェブサイトへ
坐禅会 – 全生庵-山岡鉄舟ゆかりの寺- (zenshoan.com)
平井正修
1967年東京都生まれ。1990年に学習院大学法学部政治学科卒業後、静岡県三島市の龍澤寺専門道場入山。2001年に同道場下山。2003年より臨済宗国泰寺派全生庵の第七世住職。大学院大学至善館特任教授。『花のように、生きる。』(幻冬舎)、『山岡鉄舟 修養訓』(致知出版社)、『禅がすすめる力の抜き方』(三笠書房)、『老いて、自由になる。』(幻冬舎)など著書多数。
坐禅とは何か、禅の教えの実践、瞑想と坐禅の違い、坐禅の基本所作までをわかりやすく解説。禅の世界への入門書として読んでおきたい一冊。
全生庵第三世住職による山岡鉄舟の正伝『鐵舟居士乃真面目』を平井住職が現代語訳。少年期から没するまでの鉄舟の言行をまとめている。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
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明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直す。
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