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翻訳家・文芸評論家 鴻巣友季子氏
各界で第一人者と呼ばれる人たちは、どんな本を読んでいるのか。どんな基準で本を選び、読書体験から何を学んできたのか。『風と共に去りぬ』 『嵐が丘』といった海外文学の名作の訳者であり、文芸評論家としても活躍している翻訳家の鴻巣友季子さんにお話を伺いました。

入り口は『あしながおじさん』

1980年代後半、大学院在学中に翻訳家としてデビューし、英米の古典文学や、世界に名だたる恋愛小説の翻訳を手掛けてきた鴻巣友季子さん。その読書の原点は、ジーン・ウェブスターの『あしながおじさん』だ。

「主人公の少女ジュディ・アボットは文才があるのですが、孤児院で育ったために知らないことが多い。例えば、メーテルリンクという作家をクラスで自分だけ知らず、恥ずかしい思いをする。これと似たような恥をかくシーンが何回も出てきます。その度に当時のわたしは『知らないと恥ずかしいことなんだ、憶えておこう』と。西洋文学の基礎を築いてくれた一冊です」

本の虫だったうえに、劇の台本や詩を書くことも好きだったという鴻巣さん。小学校4年生のとき、もう一つ好きなことができた。

「習い事で唯一続いた英語教室です。『もっと勉強したい』と思ったのを憶えています」

しかし、長じて大学に進学すると虚脱感に襲われる。将来どんな道に進むべきなのか、自分が何をやりたいのかがわからない。そんな時期に偶然手にしたのが、翻訳学校の折込広告だった。

「それを見たときに、わたしの中で全部つながりました。小説家になれるとは思えないけれど書くのも好き、そして語学も好き。全部いっぺんにできるのが翻訳家だと」

画像: 入り口は『あしながおじさん』

ただ、その頃の翻訳学校の生徒は40代、50代がほとんど。教師や編集者といった職業の人々が定年退職後の第二の人生として翻訳の仕事を考えるケースも多く、大学を出てすぐにでも翻訳家になろうという人は稀だった。そこで鴻巣さんは一転、独学で翻訳の勉強を始める。

「古典の原書を読み漁り、名訳と言われている日本語の文章と突き合わせる作業を1年ほど続けました」

その後、ジェイムズ・ジョイスの研究で知られる英文学者で翻訳家の柳瀬尚紀さんを頼り、「弟子は取らないけれど、運転手でもよければ」の一言で事実上弟子入り。柳瀬さんの紹介で雑誌『翻訳の世界』(バベル)で連載を持つことになり、大学4年生で文筆業デビューを果たした。その連載を読んだ編集者から、『リバー・ジャーニー世界の川を旅する』(白揚社)というイギリスBBC放送が企画した紀行集の翻訳依頼が舞い込む。これが鴻巣さんにとって初めての訳書となった。大学院の修士2年生のときのことだ。

翻訳しにくいワースト5

翻訳家として実に30年以上のキャリアを持つ鴻巣さん。さまざまな英文に向き合ってきた彼女ですら手こずる「翻訳しにくいワースト5」を明かしてくれた。

「ジョーク、言葉遊び、罵倒、アイロニー、そして詩。例えばシェイクスピアの作品は、要するに罵倒の連続なのです。彼の『テンペスト』を基にした『獄中シェイクスピア劇団』を翻訳したのですが、罵倒語がダブルミーニングになっているうえ、さらにもじられ、かつラップ調になっている。それを、どんな読み手にも不快感を与えないよう、ぎりぎり元の意味を崩さずに訳さなくてはいけない。本当に手ごわい作品でした」

また、宗教や民族問題が背景にある作品も訳者泣かせだと言う。

「2019年に翻訳したディストピア小説『誓願』(早川書房)は全編、聖書を書き換えたような内容なので、もとの聖書の逸話を知らないと、読んでも笑えない。ただ字句どおりに翻訳しただけでは、その裏に隠されている明るさや怖さのニュアンスが伝わらないのです。

それから、アメリカのバイデン大統領の就任式で披露して話題になった、詩人のアマンダ・ゴーマンさんの作品を訳したときは、英語の詩が持つ知性というものを痛感しました。彼女の詩は、実はオバマ元大統領やキング牧師といった過去の指導者たちの演説に対するアンサーでもあり、アメリカ社会のさまざまな事情が背景にあることが翻訳を通じて見えてきたのです。注釈や括弧書きを付けず、詩の世界を壊さないよう、読み手に伝わる表現を考えるのに苦心しました」

異国に暮らす人々の葛藤

翻訳という仕事を通じ、海外と日本とのニュアンスや価値観、メンタリティなどの違いに常に触れてきた鴻巣さん。国籍も宗教も異なるグローバル人材と日々接しなければならない経営者に読んでほしい本をいくつか挙げてくれた。

一冊目は、岩城けい著『さようなら、オレンジ』(筑摩書房)。オーストラリアの英語学校で二人の女性が出会う。一人は、ソマリアの紛争地帯から逃れ、初めはまったく話せなかった英語がみるみるうちに上達していくアフリカ人。もう一人は、母国では知識人として生き、猛勉強してきたにもかかわらず、なかなか流暢に英語を話せない日本人。言語を巡る彼女たちの葛藤が描かれた小説だ。

「作中の日本人女性は元研究者ですが、現地での就職先がなかなか見つからない。英語学校で初心者と一緒くたにされてしまうのですが、英語が自在に操れないと、ときとして見下され、研究者としての尊厳が剝奪されることに気づきます。語学力が精神の生死にまで関わりうる、その切実さが伝わってきます」

画像: 岩城けい著『さようなら、オレンジ』(筑摩書房) 英語が流暢に話せず、ときには屈辱も覚えながらオーストラリアの英語学校に通う日本人女性が、終盤で体験するブレイクスルーは圧巻。 www.amazon.co.jp

岩城けい著『さようなら、オレンジ』(筑摩書房) 英語が流暢に話せず、ときには屈辱も覚えながらオーストラリアの英語学校に通う日本人女性が、終盤で体験するブレイクスルーは圧巻。

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また、インドに住む日本人が現地の世界観に驚かされる石井遊佳さんの小説『百年泥』(新潮社)もおすすめだ。

「現地が大洪水に見舞われる。するとその翌朝、堆積した泥の中から本来出てくるはずがないもの―― 例えば人がむくっと起き上がったりと、日本では考えられないありとあらゆるものが出てきます。読んでいると『これってSF?』と錯覚してしまうほどですが、描かれているのはインドの日常感覚らしいです。駐在などでインドのマジカルな生活を経験したことのある方だったらきっと共感できるのでは」

視点を転じ、日本に暮らす外国人との接し方について考えさせられるのが、グレゴリー・ケズナジャット著『鴨川ランナー』(講談社)だ。

「西洋の白人が日本のコミュニティに入っていこうとしたときに、何が壁になると思います? 実は、万国の人たちをつなぐはずの共通言語、英語なのです。主人公の白人男性が流暢な日本語で話しかけても、日本人は英語を話したがり、教科書に載っているような英語しか返さない。どんなに親密な関係になっても、返ってくるのはまるで朗読のような英語。それに主人公は戸惑い、自分が英会話の練習台に過ぎないのかといぶかる。グローバルな言語を手に入れたはずの英語圏の人たちが日本で直面する違和感や屈折した状況が、非常にリアルに書かれています」

画像: グレゴリー・ケズナジャット著『鴨川ランナー』(講談社) 京都を舞台に、アメリカ人の作者が母語でない日本語で描く、日本人とのコミュニケーションの壁。2021年に第三回京都文学賞を受賞。 www.amazon.co.jp

グレゴリー・ケズナジャット著『鴨川ランナー』(講談社) 京都を舞台に、アメリカ人の作者が母語でない日本語で描く、日本人とのコミュニケーションの壁。2021年に第三回京都文学賞を受賞。

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さらに、小説以外から二冊を紹介。

「日本語が散文としては未発達だ、論理的ではないという議論があります。なぜそういう成り立ちになったのかをひも解いたのが、池澤夏樹さんの『日本語のために』(河出書房新社)。これに続けて読むと面白いのが、リービ英雄さんの『バイリンガル・エキサイトメント』(岩波書店)。どうして日本人はバイリンガルにときめきを覚えるのかがわかる一冊です」

* * *

最後に、鴻巣さんが翻訳する作品を選ぶ際の基準について聞いてみた。すると、「速さと遅さを両立できている作品」という答えが返ってきた。

「まずは、一読して『面白い!』と思えるもの。そして、何年か経ってから読み直してみると、さらに面白い。この両方を満たしている作品です。好き嫌いで言うと、情感や切実さといった人間味を感じられる作品が好きです。難解な作品であっても、最後にじわっと温かみを感じられるものを訳したいですし、読んでみたいですね」

日本語を母語としない作家も登場するなど、日本の文学もグローバルな時代になってきた。さまざまな立場の作者が描く、人間味のある文学作品を通じて、一歩踏み込んだ異文化理解について考える。今こそ、そんな読書もよいのではないだろうか。

画像1: 翻訳と読書で見えてくる、異文化の壁

鴻巣友季子(こうのす ゆきこ)

1963年、東京都生まれ。翻訳家、文芸評論家。訳書に『嵐が丘』『風と共に去りぬ』(新潮社)、『灯台へ』(河出書房新社)、『誓願』(集英社)ほか多数。『明治大正 翻訳ワンダーランド』『熟成する物語たち』(新潮社)、『全身翻訳家』『翻訳ってなんだろう?』『翻訳教室 はじめの一歩』(筑摩書房)など翻訳に関する著書も多い。毎日新聞書評委員。朝日新聞で文芸時評を担当。

画像2: 翻訳と読書で見えてくる、異文化の壁

訳書
『獄中シェイクスピア劇団』(集英社)

現代の北米を舞台に、服役囚が演じる戯曲『テンペスト』。シェイクスピアが描く人間同士の駆け引きは、現代社会にも充分通じるものがある。

画像3: 翻訳と読書で見えてくる、異文化の壁

著書
『謎とき「風と共に去りぬ」』(新潮社)

シビアな社会批評小説でありながら、恋愛小説と誤解されがちな『風と共に去りぬ』。その“謎”を文体分析によって明らかにしていく。

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