ウェビナーでは日立のAI戦略を統括する日立製作所事業主管/Vice President AI Strategy(取材時) 黒川亮による講演に始まり、楠木建氏による特別講演、さらに楠木氏、黒川、Lumada Innovation Hub Senior Principalの加治慶光の3名でのトークセッションが行われた。その模様を5回に渡ってお届けする。第1回は黒川による講演。世界一のフィジカルAIの使い手をめざし、ドメインナレッジを強みにAIを現場実装してきた日立の取り組みを紹介する。
ドメインナレッジと現場データを活かし、サービス領域からAIを実装
AI技術の主戦場が生成AIからフィジカルAIへと移行しつある中で、多くの企業の皆さまが、デジタル化もまだ道半ばなのにAIをどう業務に組み込み、事業の成長や社会課題の解決につなげていくのか、忙しい現場でデータはどう集めればいいのか、などと悩んでいらっしゃると思います。
事業のデジタル化とデータ活用はどの組織にとっても大きな課題です。私たちもこれまで、データを活用すべくAIを現場に実装しても技術的な制約で期待に応えられず、うまくいかないという経験を何度かしてきました。しかし今回のAIブームは違います。インターネット上に過去30年分のデータが蓄積され、計算能力も飛躍的に向上しました。AIモデルは爆発的に増えていますが、やがてアプリケーションとして収斂し、AIエージェントやフィジカルAIとして社会に組み込まれていくと考えられます。さらにAIは、デジタル空間のデータだけでなく実世界の物理法則や因果関係も取り込んだ「世界モデル(World Models)」へ進化しつつあります。

日立はAI関連サービス、ソフトウェア、ハードウェアの市場が2030年前までに26兆円に達すると予想しています。他の予想ではさらに多く、7500兆円、あるいは2.8京円というビジネスの世界では見たこともないような単位まで達するとも言われています。このように市場規模の予測が大きく分かれているのは、AIを「支える側(開発側)」から見るか、「使う側」から見るかの違いであると思われます。
その中で日立は、AIの開発側ではなく、使い手と、使い手を支える立場に立っています。そして、自社のドメインナレッジと現場データを活かし、スケールしやすいサービス領域からAIの実装を開始しています。まず取り組んだのは、生成AIやAIエージェントを活用したシステム開発の効率化です。生成AIを5年前から活用し、ボトムライン(純利益)の改善に取り組んできました。AIはモデルの変遷が激しいため、どのようなモデルでも品質を保てるメガプロンプト手法も開発現場に浸透しています。
続いて取り組んだのは、自社のモビリティ、エナジー、インダストリー事業を「カスタマーゼロ」としてAIを実装し、検証を重ねることでした。ここで得た学びをお客さまに最短距離で還元する取り組みから生まれた次世代ソリューション群「HMAX*」は、いまや日立のトップライン(売上)拡大の中核となりつつあります。
* HMAX by Hitachiは、AIで社会インフラを革新する次世代ソリューション群です。
さらに昨年からは全社でAIエージェントの導入を進め、フロントオフィスやバックオフィスの業務効率化にも取り組んでいます。このように各所でAIを使い始めたところ、社内の経験値とお客さまの経験値の循環が始まりました。その循環から生まれたAIアセットが日立グループで共有されています。これこそが私たちの競争力の源泉です。
現在、日立の内部で最も利用されているアセットがAIエージェントです。日立はグローバル全体で業務を事業ライン・間接部門・一般の3層に分け、経営効果の高い部門から戦略的にAIエージェントを活用しています。全社AIエージェント統括部門を組成し、One HitachiでAIエージェントの業務フローへの組み込みと自律化を推進しています。
暗黙知を次世代に伝えるフィジカルAIの可能性
こうした実践を通じ、AI実装に欠かせない四つの要素が見えてきました。第一に、IoTエッジで現場データを取得すること。第二に、現場をデジタル化すること。第三に、ドメインナレッジを持つエンジニアがデータの目利きをすること。第四に、最新のAIモデルと協創することです。最新のAIモデルが現場への最善の打ち手を考え、実行し、フィードバックしてAIを改善する。この循環がぐるぐる回ることで現場の行動が変わり、ユーザー価値の最大化、設備最適化、運用コスト削減へとつながります。ITによる事業判断と、OT(Operational Technology) による現場オーケストレーションを一体運営することがHMAXの本質です。
フィジカルAIは、工場の完全無人化をめざすだけではありません。日立には既存のITシステムと連動させ既存の施設で職人のドメインナレッジをロボットに活かし、数倍の生産性向上と品質維持を実現している工場もあります。
鉄道事業では、列車をロボットと捉え、センサーで収集したデータをAIで解析し、部品交換や保守要員の配置を最適化しています。従来の定期保守から予防保全へと転換し、エネルギー消費と保守コストを最大15%削減しました。これを支えているのがNVIDIAの産業用エッジと、デジタルツインや物理モデルでAIモデルをトレーニングする日立 NVIDIA AIファクトリーです。
また、電力事業におけるMicrosoft Fablic iQや産業分野の保守現場におけるGemini Enterpriseの利用も始まっています。現場の作業員、数百名がGeminiの画像キャプチャやタスク自動化などのAIツールをみずから開発し、お客さまの課題を先回りして解決しています。

日本はこれから深刻な人手不足に直面します。社会インフラを支えるフロントラインワーカーが不足し、その仕事の負担がますます重くなると危惧されます。AIの価値は、どの社会課題に効かせるかで決まります。単なる効率化ではなく、働き方を変え、技能を継承し、社会を持続可能にすることが求められています。
製造業を出発点とする日立は、デジタル化とAIの実装によるフロントラインワーカーの安全や業務効率化に力を入れてきました。その取り組みにおいて期待しているのがフィジカルAIの活用です。日立の深層予測学習技術は、非常に少ないパラメーター数と電力消費で人間の神経伝達スピードに近い100Hzの推論レートを実現し、人間の動きを模倣できます。この技術を用いて熟練技能をロボットに模倣学習させることで、生産性向上と技能継承を両立できる可能性があります。フィジカルAIは暗黙知を形式知化せずに継承できる。職人の「体で覚えた知」をそのまま次世代に伝えられる可能性を秘めているのです。
第2回は、5月8日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

加治慶光(かじよしみつ)
株式会社日立製作所 Lumada Innovation Hub Senior Principal。シナモンAI 会長兼チーフ・サステナビリティ・デベロプメント・オフィサー(CSDO)、鎌倉市スマートシティ推進参与。青山学院大学経済学部を卒業後、富士銀行、広告会社を経てケロッグ経営大学院MBAを修了。日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズ、日産自動車、オリンピック・パラリンピック招致委員会などを経て首相官邸国際広報室へ。その後アクセンチュアにてブランディング、イノベーション、働き方改革、SDGs、地方拡張などを担当後、現職。2016年Slush Asia Co-CMOも務め日本のスタートアップムーブメントを盛り上げた。

黒川 亮(くろかわ りょう)
株式会社日立製作所 事業主管 Vice President AI Strategy(取材時、現在はデジタルシステム&サービスセクター Chief Lumada Business Officer兼 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット事業主管)。日本発グローバル企業日立の一員として、日立グループ内外のAI トランスフォーメーション推進、技術計画、ステークホルダ対応担当。
AI&ソフトウェアサービスビジネスユニットにおけるChief Lumada Business Officerとして、Lumada推進を通じたデータ活用を担当。
シリーズ紹介
楠木建の「EFOビジネスレビュー」
一橋ビジネススクール一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授の楠木建氏の思考の一端を、切れ味鋭い論理を、毎週月曜日に配信。
山口周の「経営の足元を築くリベラルアーツ」
山口周氏をナビゲーターに迎え、経営者・リーダーが、自身の価値基準を持つための「リベラルアーツ」について考える。
協創の森から
社会課題の解決に向けたビジョンの共有を図る研究開発拠点『協創の森』。ここから発信される対話に耳を傾けてください。
新たな企業経営のかたち
パーパス、CSV、ESG、カスタマーサクセス、M&A、ブロックチェーン、アジャイルなど、経営戦略のキーワードをテーマに取り上げ、第一人者に話を聞く。
Key Leader's Voice
各界のビジネスリーダーに未来を創造する戦略を聞く。
経営戦略としての「働き方改革」
今後企業が持続的に成長していくために経営戦略として取り組むべき「働き方改革」。その本質に迫る。
ニューリーダーが開拓する新しい未来
新たな価値創造に挑む気鋭のニューリーダーに、その原動力と開拓する新しい未来を聞く。
日本発の経営戦略「J-CSV」の可能性
日本的経営の良さを活かしながら利益を生み出す「J-CSV」。その先進的な取り組みに迫る。
ベンチマーク・ニッポン
日本を元気にするイノベーターの、ビジョンと取り組みに迫る。
デジタル時代のマーケティング戦略
マーケティングにおける「デジタルシフト」を、いかに進めるべきか、第一人者の声や企業事例を紹介する。
私の仕事術
私たちの仕事や働き方の発想を変える、膨らませるヒントに満ちた偉才たちの仕事術を学ぶ。
EFO Salon
さまざまな分野で活躍する方からビジネスや生活における新しい気づきや価値を見出すための話を聞く。
禅のこころ
全生庵七世 平井正修住職に、こころを調え、自己と向き合う『禅のこころ』について話を聞く。
寄稿
八尋俊英の「創造者たち」~次世代ビジネスへの視点~
新世代のイノベーターをゲストに社会課題の解決策や新たな社会価値のつくり方を探る。

