一橋ビジネススクール教授 楠木建氏
今月のテーマは、近年、経営のキーワードとして語られる「人的資本」。まずはその定義から、楠木氏が明らかにする。

「第1回:『資本』とは。」
「第2回:豊かさの起源。」はこちら>
「第3回:オプションを持って働く。」はこちら>
「第4回:長期視点の回復。」はこちら>

※本記事は、2023年1月11日時点で書かれた内容となっています。

このところ「人的資本」に多くの人が注目しています。なぜ、わざわざ人的「資本」と言うのか。ここのところ人手不足が続いている。加えて、以前よりも労働の流動性が高くなっているので、放っておくと辞めてしまう。だから、人が大切だ――そんな背景があると思いますが、果たして言葉の意味をきちんと理解した上で言っているのか、僕には疑問です。

「人的資本が重要だ」と言うのですが、そもそも「人的資源」と「人的資本」の違いはどこにあるのか。人的資本経営という言葉が、過去に生まれては消えていった安直な流行り言葉のように使われているとしたら、あまり意味がない。

以前、概念と対概念という話をしました。「何か」を説明するときに、「それが何ではないか」という対概念を置いてみると、「何か」の本質がはっきりしてくる。一見似ているけれども本質的には違うものを対に置くと、より考えが深まり、両者の定義もまたはっきりします。

「資本」の対概念は「富」です。

ある会社の創業経営者とお話ししていて、面白いなと思ったことがあります。その方は、起業した当初はもちろん小さなスケールで商売を始めました。ほどなく同業の経営者の先輩たちと社交するようになり、「これなら業界で独り勝ちできる」と確信したそうです。どの経営者も、週末にベンツに乗ってゴルフに行くことしか考えていない。何のために商売をやっているのかというと、自分のための富をつくるため。つまり、ベンツを所有し毎週ゴルフを楽しむ生活を可能にするお金です。

この方が起業当初から考えていたのは「いかに資本をつくるか」でした。富と資本、どちらもお金といえばそれまでですが、意味はまったく違います。昔の王様はたくさんの金銀財宝を持っていましたが、それはあくまでも富であって、資本はゼロ。富とは、その時点で所有しているものの量です。ある意味、資源もそれに近い概念と言える。つまり、「使うもの」。

富を消費するということは、今持っているものの量を減らすことによって何かを得ることです。それに対して資本とは、「将来に価値を生み出すもの」。その方が考えていたのは、商売を大きくするための資本の獲得でした。お金には違わないのだけれども、もっと商売を大きくしていくための投資の元手です。

人的資源と人的資本の違いは何か。人を労働力として見るのが人的資源です。人を投資対象として見たときに、初めて人的資本となる。これは単なる言葉の違いではなく、対概念の関係にあります。人的資本経営を語る上で、資本とは何であって、何ではないかという理解が大前提になります。

この話に近似しているのが、会計とファイナンスの対比です。一見、ご近所同士の関係にも見えるこの両者ですが、考え方においてはまったく逆を向いています。会計的な思考で一番価値があるのはキャッシュです。会計の枠組みでは、流動比率が高いほうがイイとされる。つまりキャッシュが偉い。ところがファイナンスの思考では、現金として持っている資産は最も価値が低い。なぜなら将来の価値をつくるために動いていないからです。キャッシュが積んであるということは、投資をしていないことを意味しています。キャッシュはファイナンスでは偉くないわけです。

この対比は富と資本の違いに結構近いものがあります。現時点でどれだけの量を持っているのかではなく、将来にわたって価値を生み出せるかどうかが基準になっている。言わば、拡大再生産できるかどうか。働いている人を単なる人的資源として考えないこと――これが人的資本を語る上での本質だと思います。(第2回へつづく)

「第2回:豊かさの起源。」はこちら>

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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「楠木建の頭の中」は僕のTwitterの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
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