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「第3回:「思考の技術」に必要な幅広い知識」はこちら>
「第4回:自分にとって何が一番得なのかを「考える」」
文学は知らない世界の扉を開いてくれる
山口
図らずも接したコンテンツからの学びという観点で言うと、私がおもしろいと思ったのは、世界史の授業で聞いた、フランスの農学者、アントワーヌ=オーギュスタン・パルマンティエの逸話です。七年戦争に従軍したパルマンティエは、プロイセン軍の捕虜になったとき、毎日のようにジャガイモを食べさせられたそうです。当時のフランスではジャガイモは家畜の飼料でしかなかったのですが、実際に食べたことでジャガイモの栄養価の高さと有用性に気づいた彼は、帰国後にジャガイモを普及させようと尽力しました。ただフランスでは人間が食べることに抵抗があってなかなか広まらない。そこで、有名人を招いてジャガイモ料理を振る舞ったり、マリー・アントワネットにジャガイモの花を贈って髪に飾ってもらったり、さらには、昼間ジャガイモ畑を兵士に警備させることで「あれほど厳重に守られているのだから特別なものに違いない」と人々に関心を持たせ、夜になると兵士を引き上げさせてわざと盗ませる、という方法で広めたといいます。
その話をあとから思い出して、「これはマーケティングの本質だな」と気づいたんですね。どうすれば価値に対する認識を転換できるのかということですから。それをパルマンティエは18世紀に見抜いていたのです。
そのパルマンティエのような人間に対する理解、人の心の機微に対する鋭敏さを養うためにもリベラルアーツ、特に文学作品が重要だと思います。鹿島先生は、学生や若い人から「文学作品に親しむことで何が得られるのですか」と聞かれたら、どんな答えを返されますか。
鹿島
まず一つは、知らない世界の扉を開くのに最適ということですね。文学作品というものは入り口が広くて読みやすいので、未知のことについて知るのに都合がいいのです。ものごとの好き嫌いは先入観だけでは決まらないもので、文学作品を読んでみたことでわかることがあります。例えば、未知の国について知りたいと思ったら、その国の文学作品を読むか、映画を観るのが早道ですね。
山口
なるほど。戦前に日本で諜報活動を行ったソ連のスパイ、リヒャルト・ゾルゲは、来日前から日本についてかなり勉強していたと言われますね。『日本書紀』や『古事記』、『源氏物語』などの古典を徹底的に読み、日本人の思考や価値観について理解を深めていたようです。書斎には日本に関係する蔵書が1000冊近くあったということですし、そうした意味では筋のいいことをやっていたということなのでしょう。
文学は家族しか描いてこなかった
鹿島
もう一つは、おっしゃるように人間や社会への理解を深めることです。僕は岩波書店の『図書』で2025年3月号から「岩波文庫で読む世界文学と家族」という連載を始めました。そのきっかけとなったのは、あるトークショーで「歴史は家族を描いてこなかったが、文学は家族しか描いてこなかった」と言ったことです。吉本隆明の『共同幻想論』や、人類学者のエマニュエル・トッドの著作などを読む中で、僕は「すべての人間の思考や考え方の枠組みは『家族』によってつくられる」と考えるようになりました。その意味で、作者の思考が反映される文学作品は、基本的に家族を描いているものだと言える。そして、その国の家族のことがわかれば、だいたいその国の人や社会のこともわかるということになります。そのことを実践したのが、太平洋戦争中のアメリカの対日戦略です。文化人類学者を総動員して日本の家族に関する文献調査を行いました。
山口
『菊と刀』を著したルース・ベネディクトも、もともとはアメリカ軍の依頼で日本について調査したのですよね。
鹿島
彼女は日本に来たことはなかったけれど、文化人類学者が集めてきた文献から、日本の家族形態に根ざした文化を理解していたようですね。その知見をもとに、戦後の統治しやすさを考えると天皇制の維持を降伏条件の一部として認めるべきだという提言を大統領に対して行ったわけです。
山口
鹿島先生は『進みながら強くなる』(集英社)の中で、人は何のために考えるのかというと、「自分にとって何が一番得なのか」を知りたいからだと書かれています。そんなプラグマティックなことなのかと思いきや、「『自分にとって何が一番得なのか』ということを徹底的に考えると、不思議なことに、答えは『自分にとってだけ一番得になること』からどんどん遠ざかっていく」のだと。この部分は、私としては「よくぞ書いてくださった」と申し上げたいところです。
何かを決めるときは広い範囲で見て得なこと、長い目で見て得なことを選べば間違いないということですね。ルース・ベネディクトの「天皇制を残すべき」というアドバイスも、アメリカにとって得なことを選んだということなのでしょうね。
鹿島
そうそう、そういうことです。日本人というのは、抵抗するとなるとすごい力を出すけれど、相手の理屈に納得すると手のひらを返すということも、見抜かれてしまっていたのですね。
山口
日米開戦にあたって、日本人の思考、価値観、文化といったことを研究するために文化人類学者が集められ、占領政策にも影響を及ぼしたということは、文化人類学の、広く言えば人文社会学の知見が政治や外交において重視されていたということになります。人文知というものに対する日米の為政者の姿勢の違いを感じます。
鹿島
旧日本軍も、インドネシアやマレーシアに侵攻する際、現地の民族について研究はしていました。ただ、それがちゃんと上層部に届いたのかというと、たぶん届いていなかったのでしょう。
第5回は、5月20日公開予定です。
鹿島 茂
1949年神奈川県横浜市生まれ。1973年東京大学仏文科卒業。1978年同大学大学院人文科学研究科博士課程単位習得満期退学。元明治大学国際日本学部教授。明治大学名誉教授。専門は19世紀フランス文学。
『馬車が買いたい!』(白水社)でサントリー学芸賞、『子供より古書が大事と思いたい』(青土社)で講談社エッセイ賞、『職業別パリ風俗』(白水社)で読売文学賞評論・伝記賞を受賞するなど数多くの受賞歴がある。膨大な古書コレクションを有し、東京都港区に書斎スタジオ「NOEMA images STUDIO」を開設。2017年、書評アーカイブサイトALL REVIEWSを開始。2022年には神田神保町に共同書店PASSAGEを開店。
『小林一三 - 日本が生んだ偉大なる経営イノベーター』(中央公論新社)、『フランス史』(講談社選書メチエ)、『渋沢栄一 上下』(文春文庫)、『思考の技術論』(平凡社)など著書多数。
山口 周
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『クリティカル・ビジネス・パラダイム』(プレジデント社)他多数。最新著は『人生の経営戦略 自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。