一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
今月のテーマは、他人に惑わされることなく、自分にとって本当に価値あるものを見つけるための楠木流メソッド「そんなにイイか?」。第4回は、本メソッドの実用バージョンである「そんなにイルか?」についての解説。

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「第4回:そんなにイルか?」

※ 本記事は、2024年9月3日時点で書かれた内容となっています。

「そんなにイイか?」メソッドを、さらに日常生活の中でも使えるようにした実用バージョンに、「そんなにイルか?」があります。この自問自答も、僕は重宝しています。

特に「そんなにイルか?」が効果的なのは、趣味に関わる消費です。以前にもお話ししたことがありますが、僕は還暦になったら車を乗り換えようと考えまして、2~3年前から還暦大作戦と名付けて暇さえあればカーセンサーなどのウェブサイトをチェックしていました。やってみると、これにしようかあれにしようか迷っているプロセスが面白くて仕方がない。

僕は小さな車が好き。横幅1,800ミリぐらいのサイズに収めたい。この基準で還暦大作戦で候補になった車は、中古車が前提ですがポルシェのケイマンやアルピーヌA110です。間違いなくかっこいい。しかし「そんなにイルか?」と自問自答しますと、これはスポーツ走行をすることのない人間が乗る車ではありません。僕は街中を流すだけ。宝の持ち腐れです。

車が今よりずっとコンパクトだった時代のメルセデス・ベンツ190もイイと思いましたが、ディーラーの人に聞いてみると、「何十年も前の車はどうしても手がかかるので、普段使いには向かない」と言われました。これは自問自答するまでもなく不採用です。

ハードトップのマツダロードスターRF、光岡自動車がマツダロードスターを古いコルベット仕様に改造したロックスターなども、カッコいいと思って試乗に出かけたりしました。しかし「そんなにイルか?」を繰り返した結果、10年10万キロをとうに越している今の車をつぶれるまで乗り続けようという気持ちに着地し、3年越しの還暦大作戦は終結しました。

「幸福は幸福の中にあるのではなく、それを手に入れる過程の中だけにある」というドストエフスキーの名言がありますが、還暦大作戦はあれこれと考えているプロセスでもう報われています。自分の経験として本当に価値があったし、しかも無駄なお金を使わずに済みました。

また、もう少し身近な例でいえば、僕は移動中に音楽を聴くワイヤレスイヤホンは、古いソニーのものを使っています。今は性能や音質も良くなっていますから、買い替えを想定して新しいものをネットでチェックするのですが、「そんなにイルか?」と自問自答してみると、「そうでもないな」。移動中にこれ以上の高音質が必要なのか、と思い至ります。僕が音楽をじっくり聴く時には、家のステレオセットで大好きなソニーのスタジオモニター用の有線ヘッドホンを使います。これが僕にとって最高の音なので、移動中のワイヤレスイヤホンは今のままでいい。

音楽でいうと、僕はバンドでベースを担当していまして、ベースギターをすでに3本持っています。このトリオが僕には最高の組み合わせで、これ以上増やす必然性はどこにもないのですが、なにぶん趣味の世界なのでついつい違うベースに目が行ってしまいます。例えばYouTubeでいろんなバンドのライブ映像とかを見ていると、ギブソンのサンダーバードという伝統的な形のベースがカッコよく見えてしまう。で、ついついネットで中古品を調べて、前のめりになってしまう。

しかし「そんなにイルか?」「そうでもないな」。音のタイプからしてうちのバンドで使えないのは明らかなので、そうでもないなということで気持ちが落ち着く。これが、「そんなにイルか?」の実践と効用です。

いろいろ例をあげましたが、「そんなにイイか?」「そんなにイルか?」というメソッドの本質は、自分の生活の文脈を大切にするということです。人間誰しも「立って半畳、寝て一畳」。人のいいところだけを見て比較することほど不幸なことはない。生活の総体というのはあまりに多元的で、どっちが優れているといった優劣はつけようがないはずです。真実は、それぞれの生活の個別性にあるということです。

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楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『経営読書記録 表』(2023年, 日経BP)、『経営読書記録 裏』(2023年, 日経BP)、『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

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