山口 周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー/楠木 建氏 一橋ビジネススクール教授
自由とは「みずからによる」ことであるが、学ぶことで自由が失われる面もあるのではないかと山口氏は疑問を投げかける。それに対して楠木氏は、機械的技術の学びとリベラルアーツの発露を分けて考えるべきであると説く。そして、自由に生きた教養人として、本田宗一郎と共に本田技研工業を世界的な大企業に育て上げた実業家、藤沢武夫氏のエピソードを挙げる。

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自由であることのパラドックス

山口
「自由である」ということはすごくパラドキシカルだと思います。先生も楽器を演奏されるのでおわかりになると思いますが、楽器って最初は自由に弾けません。子どもが何もわからずピアノの鍵盤を叩いて音を出すのも、自由と言えば自由ですが。

楠木
機械的な技術という観点では不自由な状態ですね。

山口
おっしゃるとおりです。楽器でも道具でも自分の体でも、自由自在に扱えるようになるためには、徹底的に訓練をすること、ディシプリンが必要です。一方で、訓練すればするほど、型どおりの動きしかできなくなって、ある種の自由さを失っていくという側面もありますよね。

これは経営学の勉強でも同じようなことが言えるのではないかと思っています。まず学ぶのはセオリーと言いますか、ある種の成功パターンですよね。例えば、物流なら一度に多く運んだほうが高効率であるといった原理原則、あるいはそれぞれの業界におけるKSF(Key Success Factor)といったものを自分の中にため込んでいくことが経営学の勉強です。

ところがパターンを貯め込んでいくとそれに縛られてしまい、非合理に見えるけれど良い戦略というものに気づかなかったり、環境の大きな変化に対応できなかったりする可能性があります。

楠木
音楽の例で言うと、以前にもこの話を山口さんにしたと思うのですが、私が演奏するエレクトリックベースの界隈では、ものすごく指が速く動いて難曲の速弾きなども完璧にこなしてしまう人がいます。でも、人を感動させる素晴らしい演奏ができても、人を感動させる素晴らしい曲をつくれるとは限りませんよね。作曲というのは、自分はこういう音楽が好きだということを表現する、リベラルアーツの発露だと思います。でも演奏は、場合によっては機械的な技術を追求して、自由になるための技術を殺していくという側面もあります。

似たような例で言えば、「教養」と「博識」も別物ですね。同じ意味にとらえている人も多いのではないかと思いますが、どんなに博識でも無教養な人というのはいます。つまり、知識は豊富だけれども自分の中に価値基準がない人です。反対に、ものすごく広い知識はなくても、自分の経験、日々の生活から学んで自分だけの基準をつくり上げ、それに忠実に生きている人もいます。そういう人はリベラルアーツが身についているのだと思います。

経営学の知識が豊富にあったとして、それを活かしつつ自分で判断ができる人もいれば、それにとらわれて変化に対応できない人もいるのではないでしょうか。

「趣味じゃない」と言える教養

山口
よくわかりました。視聴されている皆さんからどんどん質問が寄せられていますので、ここで少しお答えしましょうか。

最初の質問は「自由になるとはどういうことでしょうか。何からどのように自由になるのですか?」。これは今までの議論の整理になりますけれど、ある種のとらわれ、呪いから自由になるということです。

楠木
書評にも書いたように、「思い通りにならない世の中を、思うがままに生きる」ということですね。

「自由とは人のつくった基準に従属していないこと、つまり主観的な価値判断ということですか?」という質問もありますね。これはそのとおりです。

山口
主観ということについて少し補足すると、現象学を提唱した哲学者フッサールの言葉に「間主観」というものがあります。客観とは自分の外にあって他人と共通理解できること、主観は逆に個人の中にあるもので、場合によっては他人との間で共感や理解が成立しないこともある。間主観というのは、例えば美に対する感覚は人それぞれの主観的なものですが、「美しい」ということに対する同意、相互理解は成立するというように、主観と客観の間で同意が成立するという概念です。リベラルアーツに基づく主観的価値判断というのは、単なる独善ではなく、間主観に近いことではないかと思うのですが。

楠木
もともとはその人がよいと思うことですから、あくまでも起点は主観です。ただ結果的に、その人の価値判断に触れた周囲の人たちが共感したり、それに惹かれたりすると間主観ということになります。

教養がある人の例として私がよく挙げる藤沢武夫さん、本田宗一郎さんと一緒にホンダを世界的な大企業に育て上げた方ですが、その藤沢さんと本田さんは、あれだけ二人三脚で仕事をしてきて、経営の第一線も同時に退いたのに、そのあとはほとんど話もせず、会うことすらなかったそうです。本田さんは賑やかな方なので、いつもご自宅に友達が集まってわいわいやっている。そういう集まりに藤沢さんは行かないので、「なぜいらっしゃらないのですか」と聞かれたところ、「趣味じゃない」と答えたそうです。これが教養だと思わされますね。主観的な価値基準に忠実に、思うがままに生きるとはどういうことかが、このエピソードに凝縮されていると思います。

楠木 建

1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)をはじめ、著書多数。最新著は『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)。

山口 周

1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)など。最新著は『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。

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