一橋ビジネススクール教授 楠木 建氏

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大学院時代にいろいろな経営の理論やモデルを勉強したときに、これは面白い考え方だと思ったのがアメリカの心理学者ハーズバーグ(※)の『二要因理論』です。もう60年も前の古典的なモチベーション理論なので、ご存知の方は少ないかもしれません。僕はモチベーション理論のようなミクロ組織論にはあまり関心がありませんでしたが、ハーズバーグのロジックの面白さには感心しました。

(※)フレデリック・ハーズバーグ 1923年4月8日~2000年1月19日 アメリカの臨床心理学者。ケース・ウェスタン・リザーブ大学で心理学教授、ユタ大学で経営学教授を歴任した。モチベーションの上昇と低下について、「動機付け要因」と「衛生要因」からなる『二要因理論』を提唱した。

二要因とは何か。ひとつは人間の幸福や満足を促進する「動機付け要因」です。もうひとつは人間の不幸や不満足を少なくする要因で、彼はこれを「衛生要因」と名づけています。このふたつの要因が相互に独立の関係にある、すなわち「別物」だというのが『二要因理論』の骨子です。

「満足」を例に説明をしますと、「満足」の反対にあるのは「不満足」ではない。それは「満足」がないということであって、「没満足」であるとハーズバーグは言うのです。

彼はエンジニアや経理担当者を実際に調査した時に、人間が満足する要因は、人に信頼されるとか、その仕事自体に価値を感じられるといったことにあると気づき、これを「動機付け要因」と位置づけました。つまり、これを大きくすればするほど、人間は満足する。当たり前のことです。

一方で、給料とか、勤務先の環境とか対人関係とか作業条件とか、仕事の不満にかかわること、これが「衛生要因」です。どういうことかと言いますと、給料が上がったり、昇進したりといったことは、「不満足」をなくしても、「満足」にはつながらない。それを極大化していっても「没不満足」という状態になるだけで、決して人間の「満足」にはつながらないということなんです。「衛生要因」は職務「満足」をもたらさない「不満足」を予防することしかできない、こういうロジックです。

これまで一次元上の両極にあると思われていた「満足」と「不満」がまったくの別物、別次元であるということで、当時この主張は注目されました。「君は今の仕事が不満か。それなら給料を上げよう。昇進させよう」では、何の問題解決にもならないわけです。実務上の報酬システムの設計にも影響を与えた古典的な理論なのですが、人間の幸福というのは本当にそういうものだとつくづく思います。

人は「幸福になる」ということと、「不幸を解消する」ということを混同しがちです。そういう思考だと、不幸になる要因をどんどん排除していけば幸せになるのですが、そんなことはありません。その先にあるのはただの「没不幸」なんです。

例えば、僕を例に嫌なことを挙げてみますと、上司がいたり、上司に評価をされたりするのが嫌です。部下を持って彼らを動かすのはもっと嫌です。強い利害がある仕事が嫌です。もう少し日常的な行為で言うと、テレビを見るのが嫌です。会議とかも嫌です。走るのが嫌で、せわしなく急ぐのが嫌です。パーティーが嫌ですといったように、嫌なことはいくらでもリストアップできます。嫌なことをするのは「不幸」だから、何とかしてそれから逃れたり、解消しようとする。でもそれは「幸福」をもたらさないんですね。

特に経験の少ない若い頃は、好きなことより嫌いなことの方が理解しやすいので、僕も何が好きかはわからないけれども、嫌なことはやめておこうと考えて大学院に行くことにしました。それは確かにひとつの強力な理屈なのですが、「没不幸」の役には立っても、「幸福」につながっているわけではない。

悪い上司に当たったから不幸だと考えて、そういう上司のいない企業に転職しようとしても、そこにあるのは「幸福」ではなく「没不幸」だということ、これは肝に銘じておくべきだと思います。

楠木 建

一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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