「第1回:トランプ現象を理解するために必要なこと」はこちら>
「第2回:世界の読み解きに必要な神学リテラシー」はこちら>
「第3回:「不可能の可能性」とイノベーション」はこちら>
「第4回:キリスト教の強さの裏にあるもの」はこちら>
「第5回:重要なのはリベラルアーツと実世界との接点」
ローマカトリック教会に学ぶグローバル化
山口
本日ぜひお伺いしたいと思っていたことがもう一つあります。現在、日本企業の多くが組織のグローバル化に挑戦していますが、歴史上、グローバル化に最も成功した組織はローマカトリック教会ではないかと思います。
佐藤
確かにそうですね。
山口
その大きな理由の一つに、私は「偶像崇拝の禁止」ということがあるのではないかと考えています。偶像をつくろうとすると必ず現地化してしまいますが、情報、言葉というものは場所を変えても変わらない。その変わらないものをど真ん中に置くからこそ、ガバナンスが難しい時代に世界中に広がる大きな組織になれたのではないでしょうか。
佐藤
おっしゃるとおりです。それ以外のグローバル化の秘訣としては、1870年の第1バチカン公会議で「教皇の不可謬性」を定めたこともあると思われます。不可謬性とは、教皇が公的に信仰と道徳に関して述べたことは過ちを免れる、すなわち教義と道徳に関してローマ教皇は絶対に正しいということです。それ以前から教皇はカトリック教会において全司教の第1位にあるという「教皇首位権」が定められていましたが、不可謬性を含めた首位権がそのときに「教義」として定められました。それによって、守らなければいけない部分を最小限にしたわけです。
もう一つ重要なことは幹部人事の掌握です。司教以上の人事※1はすべてバチカンに決定権があります。グローバル企業に当てはめると、ローカルの支社や支店の最高幹部の人事だけは本社が握るということですね。
山口
なるほど。また、カトリック教会の信者であれば、一人ひとりに宛てて定期的にローマ教皇から「回勅※2」が送られてきます。世界のトップからグローバルの末端の人たちまで直接メッセージがくるという仕組みも重要ではないかと思います。
佐藤
それと同時に、毎週教会で告解をしますね。そこで自分の司祭に何か過ちを犯したと告白すると、それが教区司祭に伝わり、教区司祭から最終的には教皇までに伝わり、教皇は天国につながる鍵を持っているから確実に赦され、救われることになる。つまり、その組織に所属していれば間違いなく救われるという確実性があることが精神的な支えとなる。そのようなセーフティネットがあることがカトリックの特徴です。
一方のプロテスタントにはそれがないんですよ。見える教会と見えざる教会というのがあって、実際に地域の教会に所属はしていても、重要なのは見えざる教会、神の前に選ばれた者たちの集まりとしての教会に入ることで、究極的には自分と神との個人的な関係を築くことがプロテスタントのめざすところですから。
山口
プロテスタントの予定説は、神が誰を救済し、誰を救済しないかはあらかじめ決まっているというものですね。
佐藤
そうです。だから常に不安に衝き動かされていて、神に救済されていることを証明するにはこの世の中で成功しないといけないという強迫観念があるから、ワーカホリックになるのです。そして貯め込んだ富は、自分で浪費をすると神に罰せられるという不安があるから、寄付に充てたり、投資に充てたり、人に見返りを求めずにばらまく。それゆえにカリスマ性が身につく、という循環に入りやすいのです。
山口
なるほど。ここがおもしろいところなんですけれど、IMD(国際経営開発研究所)の世界競争力年間を見ると、2024年の1位はシンガポールですが、2位がスイス、3位がデンマークで、以下、スウェーデンやオランダ、ノルウェー、アメリカなどのプロテスタント国が上位にいます。グローバル・イノベーション・インデックスでも、上位の国にはプロテスタント国が多いのです。
佐藤
やはり今言ったような強迫観念が働いて勤労精神に富むところが大きいのでしょうね。ただ、プロテスタント的な「正しい生き方」というのは息切れしてしまうもので、その息苦しさというのが20世紀から21世紀にかけて資本主義が直面している問題、成長の停滞といったことにつながっているのではないでしょうか。
※1 司教以上の人事:カトリック教会の階層はピラミッド型となっており、教皇を頂点に枢機卿、大司教・司教、司祭、助祭、そして一般信徒で構成される。
※2 回勅:カトリック教会においてローマ教皇が司教を通じて信者全体に送る文書。教会に関する問題や教えについて教皇の見解と指針を示すもの。
リベラルアーツの基礎を固める一冊
山口
最後にリベラルアーツ、教養について伺いたいのですが、昨今、日本では文学部廃止論に象徴されるように、哲学は役に立たない学問だとか言われがちですけれど、世界を見渡せば、HP創業者のデビッド・パッカード、ペイパル創業者のピーター・ティール、カーライル創業者のデヴィッド・ルーベンシュタイン、クオンタムファンド設立者のジョージ・ソロスなど、哲学科の出身者が実業界で存在感を放っています。
現代は不確実性の時代と言われ、トランプ大統領のような人が出てきて、まさに一週間先も予測できないというような状況ですが、不確実性が高まるほど確実なものに投資をしたいと多くの人は考えると思います。勉強というものが自分への時間投資だと考えると、私は「リベラルアーツの勉強」が最も確実な投資ではないかと思っているのですが。
佐藤
その考えには私も賛成です。では実際、リベラルアーツの勉強はどうすればいいのかというと、一番いいのは『グランゼコールの教科書』です。フランスの高等専門学校の教科書を翻訳したもので、プレジデント社から出されていて850ページもある本なのですが。
山口
私の担当編集の方がつくられた本です。
佐藤
これを同志社大学の講義で使ったら非常に効果がありました。今、内閣官房や経済産業省の方々も学習に使っているようで、この一冊でリベラルアーツのベース、少なくとも西洋、アメリカを理解するための前提となる知識はかなり学べます。また、日本は翻訳書が多く出されていて、例えば古代ギリシアのソポクレスが著した『オイディプス王』などのような、人間理解の原点となる作品が文庫本で手軽に読めます。それほど数は要りませんが、長く読み継がれてきたものを厳選して読むことは、急がば回れで役に立ちますね。
山口
岩波文庫のロングセラーを順に読んでいくというようなこともアプローチとしては有効だということですね。
佐藤
それから、山口さんが日立という企業グループと組んで、こうしたリベラルアーツに関する発信をされるということにも、とても大きな意味があると思っています。
山口
ありがとうございます。
佐藤
やはり漠然とリベラルアーツが必要だと言ってもなかなか伝わりません。企業グループの文化形成や、ビジネスにおいてリベラルアーツを実践知としてどう生かすかという発想をしないと、現実的に考えられないのではないかと思います。
山口
企業の世界なり、外交の世界なり、実世界との接点のところが大切だと。
佐藤
そう。ですから外交でも日本の国益ということを考えないで国際評論をしているだけでは足りないのです。われわれが生き残るために何が必要かを考えなければいけない。リベラルアーツも単なる飾りとしての教養ではなく、複雑な世界を読み解く知恵、生存戦略として生かすことが重要なのだと思います。
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佐藤 優
1960年東京都生まれ。作家、元外務省主任分析官。1985年同志社大学大学院神学研究所修了。外務省に入省し、在ロシア連邦日本国大使館に勤務。その後、本省国際情報局分析第一課で、主任分析官として対ロシア外交の最前線で活躍。
2005年に発表した『国家の罠』(新潮社)で第59回毎日出版文化賞特別賞受賞。以後、作家として外交から政治、歴史、神学、教養、文学に至る多方面で精力的に活動している。『自壊する帝国』(新潮社、第5回新潮ドキュメント賞、第38回大宅壮一ノンフィクション賞受賞)、『十五の夏 1975』(第8回梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞)など著書・共著多数。2020年第68回菊池寛賞。
山口 周
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来』(プレジデント社)、『クリティカル・ビジネス・パラダイム』(プレジデント社)他多数。最新著は『人生の経営戦略 自分の人生を自分で考えて生きるための戦略コンセプト20』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。