「第1回:伊藤亜紗氏講演「漏れる利他(前編)」」はこちら>
「第2回:伊藤亜紗氏講演「漏れる利他(後編)」」はこちら>
「第3回:矢野和男講演「ウェルビーイングは利他から(前編)」」
「第4回:矢野和男講演「ウェルビーイングは利他から(後編)」」はこちら>
「第5回:佐藤雅彦講演「『応援からはじめるイノベーション』企業における社員同士の利他とは」」はこちら>
「第6回:「利他」とは違いを受け入れ、うまくやっていくための知恵」はこちら>
人が成長するために必要なこと
私は「幸せ」や「ウェルビーイング」について技術的な側面から研究を行っています。仕事と幸せの関係については2つのシステムがあり、1つは経済的価値が幸せを生み出すという20世紀型のシステムです。もう1つは仕事における挑戦や成長が幸せそのものであり、それが結果的に経済的価値を生み出すという21世紀型のシステムです。後者のような考え方は昔からありますが、近年その重要性が高まっています。
「幸せ」というものは定義が曖昧で人それぞれだから考えても仕方ないと思われがちですが、ここ30年ほどの間に幸せについての研究が世界中で注目されるようになってきました。そのパイオニアがミハイ・チクセントミハイ、ソニア・リュボミアスキー、フレッド・ルーサンスなどの方々です。
私はたまたま20年前に社内失業のような状況に陥り、次の研究テーマとして見出したのが、データの活用によって幸せや生産性について解明することでした。幸せな姿というものはもちろん人それぞれですが、環境変化に応じてわれわれの体内で起きる生化学反応、血圧、筋肉や内臓の動き、呼吸、発汗といった反応は人種を問わず共通しています。そうした共通点の上に文化や個性といったものが乗っていると考えたときに、幸不幸も快不快も、生化学反応の観点から見れば共通的に測れるのではないかと考えました。
では、人はどのような状況で幸せやウェルビーイングを感じるのか。チクセントミハイは人の体験を統一的に捉えることをめざし、その人がどれだけチャレンジングな状況にあるか、自分の力を活かしているかどうかで心理状態を区分しました。
図の4つのゾーンはそれぞれに意味があり、すべてが必要なものですが、快適でラクな状態が幸せというイメージがあるため、図の右下のコンフォートゾーンにいることがウェルビーイングだと誤解されがちです。自分の力を活かして難しくない仕事をしているという状況は、たしかに余裕があって快適ですが、そこに留まり続ければ退屈してしまいますし、成長もありません。人は背伸びしてやっと手が届くようなことを行っているときこそ、やりがいを感じ夢中になれるものです。図の右上の状態ですね。
コンフォートゾーンは自分の成長とともに狭まっていきますから、ここを広げ続けるには上のチャレンジングなゾーンに出て行かなければなりません。そのことを心理学では「To get comfortable being uncomfortable」と言います。
例えば、頑張って筋トレをすると筋肉痛になる。それは心地よくないことだけれど、自分が頑張った証しなのだと思えば充実感がありますよね。そんなふうに「心地よくないことを心地よく感じる」ということは一種のスキルとして誰でも身につけられ、仕事にも人間関係にも応用できます。コンフォートゾーンからあえてチャレンジングなゾーンに出て行くことで、仕事や人生を楽しむことができ。人は成長していくのです。そのような状態がウェルビーイングであるということが、ここ30年ぐらいの研究で明らかになってきています。
人それぞれの個性、性格の違いは、コンフォートゾーンの違いであるとも言えるでしょう。組織や会社はコンフォートゾーンの異なる人間同士が集まって形成するものですから、組織が幸せであるためには異なる人間同士がコミュニケーションを通じて相手のコンフォートゾーンを理解し、それを活かす、あるいはコンフォートゾーンを出ることによる成長を後押しすることが不可欠です。つまり、個人のウェルビーイングも組織のウェルビーイングも、よい人間関係が土台になるということです。
幸せな組織に見られる三角形のつながり
ウェルビーイングにとってよい人間関係はどのようなものかを解明するために、われわれは組織のコミュニケーションの実態を高い解像度で可視化できる名札型のセンサーデバイスを開発しました。これを身につけていると、誰と誰がいつどれだけコミュニケーションをとったか、体が一日中どんなふうに動いているかがわかります。さまざまな職業や組織において、それらのデータをのべ1千万日、10兆個以上集め、一日の幸福度に関する質問への回答データと併せて分析することにより、生産的で幸せな集団とそうでない集団を分けるファクターを見つけ出しました。
2022年に『Scientific Reports』に発表した東京工業大学(現東京科学大学)との共同研究では、名札型センサーを用いて集めた職場での従業員同士の対面コミュニケーションに関するデータの分析から、V字型ではなく三角形のコミュニケーションが多いほど従業員の落ち込みが少ない、つまり職場全体の幸福度が高いことを明らかにしています。
V字型というのは、例えば私は家内とよく話す、家内は娘とよく話す、でも私は娘と直接話さず、娘のことはいつも家内経由で聞くというような関係です。それでは家族の連帯や結束が生まれませんよね。三角形ができるということは組織のメンバー同士の横のつながりが多く、コミュニケーションの中で結束感や一体感が得られていることを意味します。
コミュニケーションが大事だということは以前から言われてきましたけれど、単に会話が多ければいいのかというと、そうではないことがデータを見ればわかります。会話があってもどこかに分断があれば孤立感、孤独感が高まってしまうのです。孤立感は、生産性や健康の大きな脅威であると言われています。
職場での会話が、縦のつながりで交わされる報告・指示・依頼・回答といったことだけでは幸せにも生産的にもなれません。仕事においても人間同士、仲間同士の横のつながりのある関係が重要だということです。
幸せで生産性の高い組織は、従業員同士のつながりがフラットで、5分程度の短い会話と非言語コミュニケーションが多く、発言権も平等であるといった特徴を持ちます。以前は見えなかったこのような特徴が、データの力によって科学的に明らかになってきたわけです。(第4回へつづく)
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矢野 和男(やの かずお)
株式会社日立製作所 フェロー 兼 株式会社ハピネスプラネット代表取締役CEO
84年早大修士卒。日立製作所入社。論文被引用数4500件、特許出願350件超。幸せに関するテクノロジーの研究を世界に先駆けて開始。2020年に株式会社ハピネスプラネット設立。大量データから幸せな集団が持つ普遍的な特徴を解明。ウエルビーイングテックに関するパイオニア的な研究開発により2020 IEEE Frederik Phillips Awardを受賞。