山口 周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー/岸見 一郎氏 哲学者
さまざまな領域で変革の必要性が語られながら「変われないこと」への閉塞感や息苦しさが漂う今日の社会。大ベストセラー『嫌われる勇気』(ダイヤモンド社)により日本にアドラー心理学を広めた岸見一郎氏は、社会で生きづらさを抱える人々に対して「世界を変えるのはあなただ」と説き、生きる勇気を与え続けている。
オンラインで行われた山口周氏との対話では、人が自由に生きるために必要なこと、ビジネスリーダーが哲学や心理学を学ぶ意味、そして「自分の価値」とは何かという根源的な問いに対し、岸見氏一流の導きが示された。

「第1回:自由と責任を引き受けるということ」
「第2回:人類を信頼して、声を上げる勇気を」はこちら>
「第3回:孤立はしても孤独ではない」はこちら>
「第4回:私はあなたである」はこちら>
「第5回:人は生きているだけで価値がある」

現代にも通ずるソクラテスの指摘

山口
岸見先生は、ギリシア哲学をはじめアルフレッド・アドラーやエーリッヒ・フロム、職場のリーダーシップ論などに関する執筆、講演、さらにはカウンセリングなど幅広いアウトプットを通じて、長年「こころ」の問題と向き合ってこられました。その中で、現在の日本人の「こころ」には、どのような問題があると感じておられるでしょうか。

岸見
私の原点はプラトン哲学、厳密に言うとプラトンが著したソクラテス哲学ですが、『ソクラテスの弁明』の中に次のような一節があります。

「世にも優れた人よ、君たちは知力においても武力においても、アテナイというもっとも評判の高い偉大な国家の一員でありながら、お金ができる限り多く手に入ることには気を使い、そして、評判や名誉には気を使っても、知恵や真実には気を使わず、魂をできるだけ優れたものにすることにも気を使わず心配もしないで、恥ずかしくはないのか」

ソクラテスが紀元前に遺したこの言葉は、現代の私たちに投げかけられたものだと言われても違和感がありません。世の中を見渡せばお金のことばかりと言っても過言ではないような恥ずべき状況です。昔から、洋の東西を問わず、人間というものはそれほど変わっていないのでしょう。

「魂を優れたものにする」ということを、プラトンは別の対話篇で「魂の世話」と表現しています。ギリシア語ではpsychestherapeia[psyche(魂)のtherapeia(世話)]と言い、「psychotherapy(サイコセラピー:心理療法)」の語源となっています。そう考えると、「世話」とは「治療」のようなもので、もしもソクラテスが今の世の中に生きていたら精神科医やカウンセラーになっていたかもしれないと思います。私自身もソクラテスをお手本として、一人一人との対話によって知を見つけ出す哲学者を志向し、彼が批判したような世の中の価値観を覆したいと努めてきました。その中で感じているのは、やはり私たちそれぞれが人生において「魂を優れたものにする」ということをしっかり考えることの必要性です。

山口
おっしゃるとおりです。「哲学者」と聞くと大学に籍を置く哲学研究者をイメージしますが、それは近代以降の話で、それ以前の著名な歴史上の哲学者、ソクラテスやプラトンはもちろん、アリストテレスもニーチェも在野研究者で、だからこそ自由に主張ができたのだと思います。岸見先生も在野の哲学者として活躍されているわけですが、その道を選ぶにあたっては迷いもおありだったそうですね。

岸見
はい。きっかけは25歳のときに母が病気で倒れたことです。当時、私は大学院生で、働いていた父や結婚して家を出た妹より融通が利きましたから、必然的に母の看病を主に引き受けることになりました。最初は意識があった母が、段々と衰弱し死に近づいていく。私は毎日その姿を見つめながら、人間というのはこのような状態においてもなお生きる意味があるのか、人生の幸せとは何なのか、深く考えさせられました。

哲学を志した以上お金を稼ごうなどとは考えていませんでしたが、当時の私は名誉というものにはなお未練もあり、大学教授になることを夢みていました。けれども、母の最後の日々を一緒にすごす中で、社会的地位などというものは死にゆくときにはまったく意味がないことに気づいてしまった。母の死後、大学院に戻ったときの自分は、もはや以前とは違っていました。それまで漠然と思い描いていた人生のイメージが崩れ去ったと言いますか、自分の前に敷かれていた人生のレールから脱線したような感覚でした。研究者として生きるつもりがなくなったわけではないけれど、ただテキストを厳密に読むことにこだわるだけの研究人生で果たしていいのか、疑問に思ってしまったのです。

人生のレールなどない

山口
「脱線」という言葉にはネガティブな意味もありますが、レールがないから自由に走れるとも言えます。敷かれたレールの上を走るのは、ある意味で楽なことです。自分で考えて行き先を決めなくてもいいのですから。私も子どもがおりますので、親が子に期待を押しつけて、知らず知らずに人生のレールを敷いてしまいがちな気持ちもよくわかるのですが、最初から自分で考えるようにしなければいけない。

岸見
そうですね。おっしゃるように、親や誰かに人生のレールを敷いてもらうことは、子どもにとってもそれに乗ってさえいれば大丈夫という安心感があります。もしもつまずいても「自分のせいではない」と言えますから。そのため、ほんとうは決められたレールなどないはずなのに、あると信じて、あるいは信じたつもりで生きている人が、若者だけでなく年を重ねた人にも多いのでしょう。

山口
困ったことに、期待を押しつけてレールを敷いている側も「自分の人生は自分で決めるもの」ということを自覚していない場合がほとんどですよね。

岸見
子どものためによかれと思って人生のレールを敷こうとしているのでしょう。それが実は子どものためにならないということを親は知らないはずです。なぜなら親もレールが敷かれた人生しか歩んでこなかったので、自分で決める人生というものが、どういうものかわかっていないからです。

自分で考えて決めるということは、安心感を手放し、自分の人生に責任を負うことです。ときには後悔することもあるでしょう。でもそれが自由に生きるということで、自由と責任を引き受けることを選べないのは、危ういことだと思います。

山口
フランスの作家、ポール・ブールジェが「自分の考えたとおりに生きなければならない。そうでないと、自分が生きたとおりに考えてしまう」(『真昼の悪魔』の一節)という言葉を遺しています。これはとても大切なことを言っていると思います。

例えば学校の偏差値、企業の時価総額や売上高など、いろいろなことが数字でランキング化されている状況というのは、ある意味では考えないで済むわけです。よりランクの高いほうに価値があるのだから、ただ上をめざせばいいということになる。ただし、それは親の期待とはまた別の、世間の評価という「呪い」になって自分の自由を縛ることになる。考えて生きずに済むことは一見楽なようで、苦しいことでもあると思います。

岸見
そうですね。人は親の期待や世間の評価を満たすために生きているのではないということに気づき、自分の人生を取り戻してほしい。私が若い人との対話やカウンセリングを続けてきた背景には、そうした思いがあります。(第2回へつづく

「第2回:人類を信頼して、声を上げる勇気を」はこちら>

岸見 一郎(きしみ いちろう)
1956年京都生まれ。京都大学大学院文学研究科博士課程満期退学(西洋哲学史専攻)。奈良女子大学文学部非常勤講師などを歴任。
著書に『嫌われる勇気』、『幸せになる勇気』(古賀史健と共著、ダイヤモンド社)、『生きづらさの克服』(筑摩書房)、『叱らない、ほめない、命じない。』(日経BP)、『三木清 人生論ノート』(NHK出版)、『エーリッヒ・フロム』(講談社)、『つながらない覚悟』(PHP研究所)、訳書にアドラー『人生の意味の心理学』(アルテ)、プラトン『ティマイオス/クリティアス』(白澤社)『ソクラテスの弁明』(KADOKAWA)など多数。

山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。