今回は、楠木特任教授が大好きな映画作品について、その面白さを独自の観点から言語化していく。1作目は、自身を「室内生活者」と称する楠木特任教授がわざわざ映画館に足を運んで鑑賞したという海外作品を取り上げる。

「第1回:映画『ヒトラーのための虐殺会議』――所与のWhat、Whyの恐ろしさ。」
「第2回:映画『ホームレス ニューヨークと寝た男』 ――自己選択と人生。」はこちら>
「第3回:北欧映画『ギルティ』『ヘッドハンター』――引き算の成熟。」はこちら>
「第4回:映画『ギャング・イン・ニューヨーク』――義理と人情、親と子。」はこちら>

※本記事は、2023年10月4日時点で書かれた内容となっています。

僕は副業で書評を書いています。本を読んで考えたことを言語化して、みなさんの読書生活の足しにしていただく。本業の競争戦略にしても、とにかく言語化することが大好き。書評も仕事になって、つくづくありがたいなと思っています。

僕は室内生活主義者です。非活動的で非体育会系。室内生活の3本柱は読書と映画と音楽です。書評は副業としてすっかり定着したのですが、映画評と音楽評の執筆依頼はたまにしか来ません。映画や音楽についても自分が考えたこと、感じたことを言語化してご提供したいのですが、やっぱり仕事は甘くない。そこで今回は、この場を借りて映画評をしていきたいと思います。

1作目は『ヒトラーのための虐殺会議』(原題:Die Wannseekonferenz/2022年/ドイツ)。日本では2023年1月に封切りされた映画です。僕は普段、滅多に映画館に行きません。映画はオンラインやDVDで見ることが多い。ですが、こればっかりは気合を入れて見なきゃと思い、久しぶりに映画館に行きました。

映画の舞台は1942年のベルリンの高級住宅地、ヴァン湖畔で行われた「ヴァンゼー会議」です。ナチス・ドイツが崩壊したときに多くの記録資料は焼却されたのですが、ヴァンゼー会議の議事録は丸々残っていました。出席者は15名のナチス・ドイツ政権の高官で、会議の時間は90分くらい。ナチス・ドイツによるユダヤ人虐殺がのちに事実として明らかになっていくきっかけとなった重要な会議です。

ヴァンゼー会議のフォーマルなアジェンダは、「ユダヤ人問題」というナチス・ドイツが独善的に設定した“課題”の「最終的解決」――ドイツだけでなく、ヨーロッパ全土のユダヤ人を計画的に抹殺するにはどうすればよいかという、極めて非人道的な企てでした。ナチス・ドイツが東ヨーロッパにつくった絶滅収容所へのユダヤ人強制移送という、歴史上類を見ない残虐行為を決定づけた会議です。

議長は国家保安部長官のラインハルト・ハイドリヒ。出席者はナチス親衛隊の幹部とか関係各省庁の事務次官クラスの人たちです。彼らの言う「ユダヤ人問題最終解決策」は国家の総力を挙げて取り組まなければならなかった事業でした。そのため、省庁間の組織横断的な調整が必要でした。

出席したナチス・ドイツの行政官と軍人の間で交わされた意見は次のようなものです。

内務省次官のシュトゥッカートという人がいます。彼はもともと法律家です。会議の中で、ユダヤ人をどう定義するかといった問題が出てくる。「混血のユダヤ人をどう扱うか」といった問題に対してシュトゥッカート次官は、「きちんと既存の法に基づいて判断するべきだ。絶対に、恣意的に判断するべきではない」と主張します。一方、親衛隊の軍人の主張は「2分の1でも4分の1でもユダヤ人の血が入っていれば抹殺の対象にすべきだ」。シュトゥッカート次官は、「そんなことをしたら法の秩序が崩れて社会が混乱に陥る」と断固反対します。

首相官房局長のフリードリヒ・クリツィンガー。この人は、それ以前からナチス・ドイツがやっていたユダヤ人の殺害方法は「人道的ではない」と懸念を表明します。それまでは、一人ひとりを銃殺していました。映画の終盤、出席者同士が非公式に立ち話をする時間があります。そこでクリツィンガー局長は、軍部が考えている最終的解決の具体的な方法が絶滅収容所のガス室で殺害することだと知り、「銃殺よりも人道的かつ効率的だ」と安堵します。

――このヘンな感じ、わかりますか? 議論の対象が「ユダヤ人殲滅」というとんでもない悪行なのに、そこには何の疑いも持たず、それぞれが極めて論理的かつ理知的に話をしている。

「ヴァンゼー会議」で論じられていることは、徹底して方法論です。「ユダヤ人は社会に災厄をもたらす邪悪な存在であり、従って抹殺しなければいけない」というナチス・ドイツが立てた異常な前提を、国政を司る出席者全員が所与の確定した事実として受け入れてしまっている。まったく疑いを持っていない。恐ろしい状況です。

この映画が秀逸な点は、カメラワークです。会議場となった湖畔の大邸宅に軍部や行政の幹部が集まり、会議を終えて解散するまでの一部始終を、カメラは参加者の視点で淡々と追っていきます。このカメラワークのおかげで、自分が会議に参加しているような――少なくとも陪席しているような気になって映画を見ることができます。

ですから必然的に、もし自分がヴァンゼー会議の出席者だったらどのような行動を取ったかを考えさせられます。仮に僕が行政官としてこの会議に出席していたら、どうだったか。おそらく、クリツィンガー局長と同じような振る舞いをしたんじゃないか。「What」「Why」を論じることなく、遂行するためのより効率的な方法「How」を論じたんじゃないか――。そう考えると、いよいよ恐ろしい。他人事ではなくなります。

Howに先行するWhatとWhyが決まってしまうと、人間は取り返しがつかないひどいことを平気でやってしまう――これが、僕がこの映画から受け取ったメッセージです。WhatとWhyを決める段階で、みんなが自由に意見を表明する。そのときの政府の方針に対して、いつでも疑問を示したり反対したりできる。言論の自由の核心はWhatとWhyにあります。言論の自由こそ、平和の絶対条件だということが嫌と言うほどわかります。

一人ひとりが社会に対して構えるときの覚悟を、見る人に迫る。『ヒトラーのための虐殺会議』は非常に優れた映画です。(第2回へつづく

「第2回:映画評―その2 映画『ホームレス ニューヨークと寝た男』 ――自己選択と人生。」はこちら>

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

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