松岡正剛氏 編集工学研究所所長、イシス編集学校校長、角川武蔵野ミュージアム館長/山口周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー
「世界は情報を編集するプロセスでできている」という松岡氏の「情報論」をひもとく。情報を編集する力のおおもとは生命の仕組みにあると話す松岡氏。情報には非線形的な複雑性があり、そのことに目を向けてきた日本のあり方を踏まえた「情報編集装置」への期待を語る。

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「第4回:情報の複合性、複雑性に目を向ける」
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情報編集力のおおもとは生命の仕組み

山口
松岡さんは編集という視点から世界を見ることに一貫して取り組んでこられて、世界は「情報を編集するプロセス」ででき上がっている、とおっしゃっていますね。この「情報」という概念について、あらためて教えていただけますか。

松岡
あらゆるものは、もともと情報から始まっています。たとえば生命の仕組みは、遺伝情報や生体情報から自己組織化や自己複製が進むというものですね。この情報高分子のはたらきが情報を編集する力のおおもとです。生命情報の編集の仕組みを人間が外部化したことによって、文字や数字をツールとしながら文明や文化を構成できるようになりました。

その後、情報通信システムが発達すると、あらゆる情報が統計学的な情報、データとしての情報の範疇で語られるようになりました。一方で情報というのは時間の矢、エントロピーの矢などをはらむ難しい概念でもあり、まだまだよく分かっていない部分があると思います。

今日の情報社会の礎を築いた数学者クロード・シャノンの情報通信理論では、ある現象を記号単位で送信システムにエンコード(符号化)し、デコード(復号)して取り出すプロセスに「情報」があると設定した。そのためにシステムが閉じてしまった。確かにコミュニケーション、情報の伝達と解釈には、情報の間違いや滞留を防がなければならないため、その考え方が適しています。けれども情報には必ずノイズが含まれます。

人間は、ある言葉や現象に対して、経験則による一種の特徴検出を行っています。くどくど説明しなくても「ああ、それ!」となる、そのことを僕は「略図的原型」と呼んでいるのだけれど、情報の中にはゲシュタルト(形態・形姿)やパターン・フォーメーションがある、つまりどんなメッセージの中にも含まれるさまざまな要素が有機的に結びついた全体構造があり、それが出入りしているわけです。

たとえば、ゲノムに含まれる遺伝情報のデコードは、DNA塩基配列をそのまま転写することだけではありません。エピジェネティクス(後生学)的に遺伝子のはたらきが決まることもたくさんある。「後から振り返ったらそうだった」ということですね。こうしたことをフィードバックできるような情報理論が今後、求められてくると思います。

今やほとんどの情報はデジタル情報となって、コンピューターネットワークの集合体が超巨大な情報社会を形成しています。そのような世界だからこそ、情報そのものが持っている非線形的な複雑性に目を向ける必要がある。そして日本文化は、古来よりそういう複雑性に目を向けてきたのです。

矛盾や対立、差異を残す情報編集装置

山口
人類学者のグレゴリー・ベイトソンは、情報とは「違いを生む違い(a difference which makes a difference)」だと言っていますね。

では何を「違い」と捉えるか。たとえば音楽で言えば、西洋音楽では1オクターブを12の平均律で分けますが、トルコのある民族では1オクターブを48に分けているそうです。その民族からすれば、4つの違う音を1つの音だとしている西洋音楽は、とても肌理が粗く感じられることでしょう。

違いとは、そのように異なる文化集団、松岡さんの言葉をお借りすれば「家」と「家」の間、あるいは人と人の間などで生まれると言えます。そして、その違いには不可逆性があると私は思っていて、肌理の粗いところへ肌理の細かいものを持っていくと、肌理の粗いほうに吸収されてしまう。このことを敷衍すると、アメリカ発のグローバリズムとは最も肌理の粗いシステムに合わせていく仕組みと言えるかもしれません。当のアメリカの人々自身は、どうもそのシステムには未来がないのではと思い始めているようですが、そこに日本の細やかなものを入れ込もうとしても果たして可能なのかと思ってしまいます。

松岡
違いとは「区別力」と言ったほうが分かりやすいかもしれない。肌理の粗いものと肌理の細かいもの、要するに全体性と部分性を一緒にすれば全体に取り込まれてしまう。そうしないためには、肌理の細かいものが出入りするプロセスを残したり、矛盾や対立、差異があったりしてもそれをそのまま残しておけるような情報編集の仕組みが必要でしょう。これは情報を処理するためのフォーマットをどうしておくかという問題です。デスクトップ・メタファーもその一つですが、そうではないフォーマット・メタファーがあってもいい。たとえば、橋懸かりや切戸口のある能舞台のような。

山口
橋懸かりは、あの世とこの世をつなぐなど、時間的変化や空間的変化を引き受ける装置ですね。

松岡
そうそう。または茶室のように、外露地があって、中門や中露地、内露地があって、躙口(にじりぐち)から入るという仕掛けですね。茶室の躙口を入るときには、大小を置いたり、履物を脱いだりせざるをえない。つまり土足だけで内と外を行き来するのとは異なる、何らかの仕掛けを施すのです。情報とは変化するもので、僕は「乗り物」と「持ち物」と「着物」と言っていますが、情報自身が乗り物(メディア)を乗り換えながら、持ち物(内容)を持って、着物(表現方法)を着替えながら進んでいく。本来、情報を扱うシステムにはその変化の余地が必要です。

ウォルフレンが指摘しているように、日本の社会システムは「システムなきシステム」なんです。だからといって既存のシステムに当てはめるのではなく、日本システムの複雑性を踏まえた情報編集装置を組み立てる人が出てきてほしいとずっと思っています。

山口
その実現には、おっしゃるような能舞台や茶室のようなもの、あるいは日本の神社仏閣とか、いろいろな物理的存在がどのように編集されてきたのかを考えることがヒントになりうるのでしょうか。

松岡
なると思います。すでにあるものを手がかりにしたほうが考えやすいでしょう。歴史学者の網野善彦が指摘したように、日本には昔から、神社仏閣のような公の権威の中に、神人(じにん)とか非人とか呼ばれながらも職能民として活躍した人々がいました。また、森鷗外が『山椒大夫』という物語で描いた、「散所」と呼ばれる場所とそこに住む人々の存在など、公に語られない「負」のものは形を変えながら残っていくわけです。「正」だけでなくそのような「負」の要素もあらかじめ抱え込みながら情報編集するプロセスとはどういうものなのか。もっと積極的に複合性や複雑性を扱う装置が必要だろうと思っています。(第5回へつづく)

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松岡 正剛(まつおか せいごう)
1944年京都市生まれ。早稲田大学仏文科出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。1971年に伝説の雑誌『遊』を創刊。日本文化、経済文化、デザイン、文字文化、生命科学など多方面の研究成果を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し、私塾「連塾」を中心に独自の日本論を展開。一方、2000年にはウェブ上で「イシス編集学校」と壮大なブックナビゲーション「千夜千冊」をスタート。

著書に『知の編集術』(講談社現代新書)、『花鳥風月の科学』(中公文庫)、『日本流』(ちくま学芸文庫)、『日本という方法』(NHKブックス)、『多読術』(ちくまプリマー新書)、シリーズ「千夜千冊エディション」(角川ソフィア文庫)、共著に『日本問答』(田中優子、岩波新書)、『読む力』(佐藤優、中公新書ラクレ)ほか多数。

山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。

著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。