山口周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー/松岡正剛氏 編集工学研究所所長、イシス編集学校校長、角川武蔵野ミュージアム館長
先人たちの言葉を引用し、日本は「ふり」をしてきた国、「きょろきょろしてきた」国だと山口氏は指摘する。松岡氏は「『仮』の言葉で文化や思想を育んできたことに確信を持つべき」というリービ英雄氏の言葉を紹介したうえで、日本語が持っているものを明らかにする必要性を説く。

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「第3回:『仮』への確信を持つべき」
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ふりをしてきた国

山口
松岡さんはご著書『日本文化の核心:「ジャパン・スタイル」を読み解く』(講談社現代新書)の中でオランダの政治学者カレル・ヴァン・ウォルフレンの指摘について紹介されていますが、私も彼の洞察力には感心させられました。日本は文明開化によって議会制民主主義、自由資本主義経済を導入したことになっているけれども、実はそれは導入した「ふり」をしているだけで、内側には別のシステムや体制があるのでは、という指摘でしたね。

それならばそれとして、日本人自身が自覚し、その有効性を検証して堂々と示せばいいのに、近代的な社会のふりをしてきた。そうしたことが、日本を組み立て直すうえでのボトルネックになっているのではないでしょうか。

松岡
それはそのとおりです。とくに政治や経済や教育の「システム」をつくった「ふり」をした。では、なぜそういう「ふり」をしたのだと思いますか。

山口
外側に対する羞恥のようなものでしょうか。丸山眞男は著書の中で「私達はたえず外を向いてきょろきょろしている」と書いていましたけれど、自分たちの持っている大和言葉は「仮名」で、漢字が「真名」であるというように、外側にこそ優れた文化があり、自分たちの内側にあるものは劣ったものであるという意識が日本文化の隠れたモードとしてある、ということにつながる話ではないかと思います。

松岡
そうかもしれない。先日、アメリカ生まれの小説家・日本文学者のリービ英雄さんと話したんだけれども、日本人以上に仮名まじりの日本語を愛していて、その「仮」というもの、ふりというよりもその奥にある仮というものの中で日本語を成立させ、日本思想を育んできた、そのことにもっと確信を持つべきだと言っていました。

日本人は弥生中期、後期あたりまでは文字を持たずオーラルコミュニケーション、つまり口頭での意思伝達に頼っていました。そこに大陸から漢字、鉄、稲作、馬などの先進文化が入ってくる。文化的には文字としての漢字の導入が大きい。ところが日本人は中国語をそのまま受け入れるのではなく、漢字を日本語読みするという方法、しかも音読みと訓読みの両用という方法を編み出した。さらにはそこから仮名をつくり、日本文学を生み出したわけです。そうしたことを、今日もなお、われわれはやるべきであるということをリービ英雄さんは言っているんですね。海外に目を向けることも大事かもしれないけれど、「ふり」ではない「仮」の日本語が何を生み出してきたのかをもう一度、真剣に見直すべきだと。

日本語が持っている「余地」

山口
アルファベットは27文字で閉じています。それ以上増えないから、検索をするにしても、何か言葉を組み立てるにしても、基本的にはその有限な空間の中を動いていればいい。インド=ヨーロッパ語族の言葉は基本的にそうですし、4種類の塩基の配列で構成されるゲノムもそうですね。ところが日本語は漢字とひらがなと片仮名にローマ字やギリシア文字なども使って、いろいろな言葉をつくり出せるわけですね。

松岡
そうですね。「キモい」みたいなね。

山口
そのことは豊かさの苗床である反面、ここ20年、30年の間に日本と欧米、とくにアメリカの間でバイタリティに差がついたのは、コンピューターというものと、それぞれの言語の馴染みの良し悪しが関係しているようにも感じます。日本語が持っている融通無碍さは、コンピューターという杓子定規な道具と基本的に相性が悪いのではないかと思うのですが。

松岡
日本語の漢字というのは表意文字ですね。表意文字は象形文字です。象形文字はヒエログリフがよく知られているけれど、最初は縦書きだったのが横書きのデモティック(簡略な民衆文字)に変わった。楔形文字も最初は表意性を持っていて縦書きだったのが、しだいに横書きになっていく。表意文字は縦書きが基本なんです。だから今でも、女性誌やファッション雑誌ですら日本語の基本は縦組みですね。横組みにすると売れない。こういうことは見た目の表象力ではなく、身体に沁みついた表象力です。

山口
ああ、なるほど。

松岡
カタカナいっぱいの文章でも、漢字が表意的に立ち上がるためには、縦書きであることが重要だということです。この表意文字性、漢字を見たときに脳内に徴しが残るという状態を設定できるようなアルゴリズムが、日本語をそのままコンピューターで扱うためには必要となる。

一方でプログラミング言語は英語的ですね。僕は初期のオブジェクト指向プログラミングの時代には可能性を感じたけれど、現在の汎用言語は僕が考えているような「余地」がない。つまり、辿ったり、隙間があったり、分からないものを引きずったりすることができなくなったと感じています。

もう一つ、ゲノムは意味のある遺伝子だけで構成されているわけではなく、イントロン(アミノ酸配列に翻訳されない塩基配列)がたくさん入っていますね。また、宇宙物理学では波動力学や行列力学のような素晴らしい理論が生み出されてきたけれど、宇宙の全体は90%以上がダークマター、ダークエネルギーと呼ばれる仮説的な物質とエネルギーで構成されている。つまり大半は読まない、あるいは読めない未知の領域であって、そのごく一部が遺伝子やアルファベットのような型になっているのが実際の世界です。

だから、その未知の領域と型とを自在に行き来できるような「編集表現装置」が必要です。「バーチャルリアリティ」を提唱したジャロン・ラニアーは著書『人間はガジェットではない』(ハヤカワ新書juice)の中で、現在のコンピューター技術で主流となっているファイル利用は、人間の可能性をクラスターに切り刻んでしまい、連続的、非抽象的、非合理的なものを排除する考え方だと批判しています。

本来は曖昧なものを対象化できる余地があるコンピューター技術を取り戻さなければならない。具体的には日本語を扱いやすいプログラミング言語、アルゴリズムですね。そのためにはそもそも「日本語が持っているもの」を明らかにする必要があります。メインカルチャーだけでなく、日本語ラップや歌謡曲のようなサブカルチャーの中にも日本的なアロアンス、含みがたくさんあって、そういう可能性を知的にすくい上げていくことがこれから求められると思います。(第4回へつづく)

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松岡 正剛(まつおか せいごう)
1944年京都市生まれ。早稲田大学仏文科出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を経て、編集工学研究所所長、イシス編集学校校長。1971年に伝説の雑誌『遊』を創刊。日本文化、経済文化、デザイン、文字文化、生命科学など多方面の研究成果を情報文化技術に応用する「編集工学」を確立。日本文化研究の第一人者として「日本という方法」を提唱し、私塾「連塾」を中心に独自の日本論を展開。一方、2000年にはウェブ上で「イシス編集学校」と壮大なブックナビゲーション「千夜千冊」をスタート。

著書に『知の編集術』(講談社現代新書)、『花鳥風月の科学』(中公文庫)、『日本流』(ちくま学芸文庫)、『日本という方法』(NHKブックス)、『多読術』(ちくまプリマー新書)、シリーズ「千夜千冊エディション」(角川ソフィア文庫)、共著に『日本問答』(田中優子、岩波新書)、『読む力』(佐藤優、中公新書ラクレ)ほか多数。

山口 周(やまぐち しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。

著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。