株式会社日立コンサルティング 代表取締役 取締役社長 八尋俊英/ミナトホールディングス株式会社 代表取締役会長兼社長 若山健彦氏
東京都港区にて、個人事業として産声を上げた「港通信機製作所」。1956年12月17日に株式会社に改組し、「港通信機株式会社」として事業を開始した。1972年、社名を「ミナトエレクトロニクス株式会社」に、2015年に「ミナトホールディングス株式会社」に変更。電算機をつくる小さな町工場からスタートした会社だが、1973年にフラッシュメモリなどにマスターデータを書き込むための装置「デバイスプログラマ」を国内で初めて開発したほか、いち早くタッチセンサーを手がけるなど、高い技術力を誇ってきた。そして2012年に、当時、出資者であった若山健彦氏が社長に就任すると、M&Aや新規事業開発を基軸に売上高を十数倍に伸ばし大きく成長。なぜ、飛躍的な成長を遂げることができたのか。日立コンサルティング八尋俊英社長が、時代の先を行く若山社長の半生を振り返りながら、そのヒントを探る。

「第1回:90年代半ばにIT産業勃興を体感」
「第2回:国内で二番目のネット銀行を創業」はこちら>
「第3回:『デジタルコンソーシアム構想』とは」はこちら>
「第4回:グループ各社の強みを生かし、シナジーを追求」はこちら>
「第5回:eスポーツやメタバースへ先行投資する」はこちら>

モノづくりとITの掛け算で急成長

八尋
2022年12月1日に、ここ港区新橋の新社屋に移られたそうですね。現在のミナトホールディングスの事業について教えてください。

若山
持株会社である当社が、国内8社、海外2社のデジタル分野の企業を束ねて事業を展開しています。傘下の代表的な会社としては、産業用メモリモジュールの設計・製造・販売を行うサンマックス・テクノロジーズ、ビデオ会議システムの販売事業などを手掛けるプリンストン、横浜市都筑区の工場でROMライターなどを製造しているミナト・アドバンスト・テクノロジーズなどがあります。うち、持株会社も含めて国内の7社が新橋の新社屋に集結しました。グループ全体で社員は約580名を数え、連結売上高は 245億円(2022年3月期)、ようやく300億円が見えてきたところです。

八尋
ちょうど10年前、若山さんが当時のミナトエレクトロニクスの社長に就任された直後に、横浜の工場に伺ったことがありました。そこから大きく飛躍されて驚いています。M&Aを軸に事業を拡大しつつ、日本の製造業とITを掛け算して、モノづくりのDX化を一気に進めている。まさに、日本の産業の「ど真ん中」にいながら、クラウド時代の資本主義と言うべきか、大小複数の会社を束ねてシナジーを最大限に生み出すという、ユニークな取り組みをなさっていますね。

若山
私は投資家と経営者の両方の視点を持って経営してきました。経営に投資の視点を取り入れつつ、企業を連結させて成長に導いてきたという点では、ユニークと言えるかもしれません。

八尋
今日は、投資家だった若山さんがなぜ、製造業の経営者になったのか、つねに時代を先取りしてこられた若山さんの半生を振り返りつつ、新時代の経営者の姿を探りたいと思っています。

米国留学でIT産業勃興を目の当たりに

八尋
我々はバブル絶頂期だった1989年に日本長期信用銀行(現・SBI新生銀行。以下、長銀)に入った同期ですが、そもそもなぜ、長銀に入ろうと思われたのですか?

若山
いずれ起業するために、アメリカのビジネススクールで学びたいと思っていたのです。MBA留学の費用を賄うために、最初は給料のいい外資系企業に就職しようと考えたのですが、長銀に入れば社費で留学できると聞いて決めました(笑)。結局、入社4年目にスタンフォード大学のビジネススクールへ留学しました。

八尋
動機は私と似ていますね(笑)。私はロンドンスクールオブエコノミクスでEU経済システムや地政学的視点を学びましたが、若山さんはシリコンバレーで、ITベンチャーの勃興期を目の当たりにされました。

若山
当時のシリコンバレーには、スティーブ・ジョブズをはじめ多くの起業家がいて、彼らの生の声を聞く機会に恵まれました。米国ではベンチャー・キャピタルが資金を集めてベンチャー企業に投資するので、起業家はたとえ失敗しても借金を背負うわけではないし、誰もが気軽に起業できる雰囲気がありました。ちょうど私が卒業した1994年にはジェリー・ヤンらがYahoo!を設立したし、サン・マイクロシステムズの共同設立者の一人であるスコット・マクネリなどが、クライアントサーバシステムを構築し始めた時期でもあります。同級生には、ネットイヤーグループの石黒不二代さん(前・代表取締役社長CEO、現・取締役)もいました。

八尋
まさにインターネット勃興期のシリコンバレーの空気を直に吸っていらしたわけですね。その後、私がソニーに転職した頃にニューヨークでお会いしたこともありました。

若山
1997年、私がニューヨーク支店にいた頃ですね。銀行の苦しい状況を肌身に感じるようになり、98年にはメリルリンチ証券会社に転職して、結局、2000年に独立しました。

八尋さんは、その頃からマルチメディアを提唱されていましたね。

八尋
ベストセラーになった『路地裏の経済学』の著者である竹内宏さんが1980年代末から長銀総合研究所の理事長をされていて、情報通信に関する国の審議会の座長も務めていました。その影響で、長銀にいち早くマルチメディア室が開設されて、留学帰りの私に声がかかったのです。

時流に先駆けて、ITの胎動を感じることができたという意味では若山さんと似ています。私は何か新しい産業を起こしたいと思っていたのですが、マルチメディアに携わるようになって、そのビジョンがより明確になりました。

経営に役立った銀行での経験

八尋
その後、新しいビジネスに携わるにあたり、銀行でファイナンスを体得した経験はやはり大きかったのではないでしょうか?

若山
まさにそうです。言うまでもなく、経営者にとって財務は非常に重要です。投資や与信の経験はいまでも役立っていますし、BS(貸借対照表)やPL(損益計算書)を見れば、その会社の経営状況がたちどころに把握できる。経営の健全性の判断や、買収の際に買収予定価格と企業価値が相応かどうかを見抜くのにも役立ちます。さらには、今後、伸びる会社かどうかも見えてくる。そういったベーシックなスキルを身につけることができたという意味で、銀行に就職したのは非常に良かったと思います。

八尋
新産業の空気を感じつつファイナンスの基本のスキルを身につけ、次のステップへ進まれたわけですね。それが、2000年のイーバンク銀行(現・楽天銀行)の設立につながっていくという。次回はそのお話から聞かせてください。(第2回へつづく)

(取材・文=田井中麻都佳/写真=秋山由樹)

「第2回:国内で二番目のネット銀行を創業」はこちら>

若山 健彦
ミナトホールディングス株式会社 代表取締役会長 兼 社長。
1989年、日本長期信用銀行(現・SBI新生銀行)入行。外資系証券会社を経て、2000年 イーバンク銀行(現・楽天銀行)を設立して代表取締役副社長兼COOなどを歴任。その後上場企業での代表取締役社長等を経て、2012年にミナトエレクトロニクス株式会社(現・ミナトホールディングス株式会社)の代表取締役社長、2019年より代表取締役会長兼社長に就任。社内の構造改革を進めるとともに、M&Aや海外展開を通じてミナトホールディングス・グループの売上高・収益力の大幅な伸長を実現している。東京大学卒業、米国スタンフォード大学経営大学院修了(MBA)。

八尋 俊英
株式会社日立コンサルティング 代表取締役 取締役社長。
中学・高校時代に読み漁った本はレーニンの帝国主義論から相対性理論まで浅く広いが、とりわけカール・セーガン博士の『惑星へ』や『COSMOS』、アーサー・C・クラークのSF、ミヒャエル・エンデの『モモ』が、自らのメガヒストリー的な視野、ロンドン大学院での地政学的なアプローチの原点となった。20代に長銀で学んだプロジェクトファイナンスや大企業変革をベースに、その後、民間メーカーでのコンテンツサービス事業化や、官庁でのIT・ベンチャー政策立案も担当。産学連携にも関わりを得て、現在のビジネスエコシステム構想にたどり着く。2013年春、社会イノベーション担当役員として日立コンサルティングに入社、2014年社長就任、2021年より東京工業大学 環境・社会理工学院イノベーション科学系 特定教授兼務、現在に至る。