株式会社 日立製作所 フェロー兼未来投資本部ハピネスプロジェクトリーダ/株式会社 ハピネスプラネット 代表取締役 CEO 矢野和男
「われわれは、すでに知っていることを適用するだけでは解決できないことに、常に直面しているのです」。日立製作所フェローの矢野和男はそう切り出した。最新の著書『予測不能の時代:データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』(草思社)は、VUCA(Volatility、Uncertainty、Complexity、Ambiguity)の時代のいま経営者層を中心に話題となり、さまざまな媒体・団体から、矢野への取材・講演依頼がひきもきらない。2022年を迎えても、新型コロナウイルス感染症による「負の影響」からいまだに逃れられていない、いまの日本に必要なマネジメントと、個人の心の向きあい方をどうするべきか?矢野が「当たり前のこと」という主張を、改めて考える。

「第1回:『予測不能な時代』に、いままでの常識を捨てるべき」
「第2回:幸せとは『楽でゆるい状態』ではない」はこちら>
「第3回:幸せな集団に見られる『FINE』とは」はこちら>
「第4回:個人と組織にとっての幸せの本質とは」はこちら>
「第5回:仕事は複利計算を意識する」はこちら>
「第6回:『易』をベースに、ウェルビーイングな1日をつくりだす」はこちら>

VUCAの時代に求められるものとは

「われわれは未来についてふたつのことしか知らない。ひとつは、未来は知りえない、もうひとつは、未来は今日存在するものとも、今日予測するものとも違う」。経営学の基礎を築いたピーター・ドラッカーの1964年の著書『創造する経営者』の一節です。この言葉は、60年近く経ったいまもまったく色あせることがありません。VUCAの時代と呼ばれる、変動し(Volatility)不確実で(Uncertainty)複雑で(Complexity)曖昧な(Ambiguity)現代こそ、経営者が強く意識するべき“警句”です。

さらには2020年に起こった、新型コロナウイルス(COVID-19)による世界的なパンデミックによって、たくさんの命が失われました。人々の日常生活は大きく変わり、グローバルな経済活動も大幅な制限を受けたまま、いまだに世界は対応に追われています。ドラッカーの言葉のとおり、われわれの世界は、常に予測を超えた形で現れるのです。そんな時代には、特定の企業、個人における過去の成功体験は、あまり役に立たなくなっています。つまり、誰もが過去にとらわれず頭を切り替えて、「未来は予測不能」であることを前提に、あらゆることを考え直すべきです。ビジネスでも、人生でも、そして社会や経済のジャンルでも、「予測不能」を前提に行動することを考えましょう。

私は、2021年に上梓した『予測不能の時代』で、いかに既存の経営方針を乗り越え、新たなる価値観で会社組織を運営すべきか。また、いかに個人の幸福を追求すべきかについて訴えてきました。

変化に対応するためにいちばん大切なのは、以下の変化に適応し、組織の価値を高める4つの原則を組織運営の基本におくことです。

第1原則 実験と学習を繰り返すこと。
過去のパターンにこだわらず新しいことを「やってみて、そこから学ぶ」という実験と学習が求められます。

第2原則 目的にこだわり、手段にはこだわらない。
目的にコミットし、その実現のための手段は柔軟に変えられるようにしておくこと。手段にこだわると、変化に対して弱くなってしまうからです。

第3原則 自己完結的な機動力を持たせる。
事業活動に必要なマーケティング、イノベーション、デリバリーの3つの機能を縦割りではなく、組織が自己完結的に持つことで、変化に即興的に対応できる機動力が得られます。

第4原則 「前向きで自律的な人づくり」に投資する。
自律的・機動的に判断できる人財を育成するための投資を積極的に行いましょう。

PDCAサイクルだけでは回らない

これまでの会社経営は、おおよそ以下のような組織を統制するための4つの仕組みで動いてきました。
(1)計画に従いPDCAサイクルを回す。
(2)仕事を標準化し、横展開する。
(3)会社で働く個人の誤った判断を、内部統制で防止する。
(4)組織に従順な人づくりや、設備に投資する。

PDCAサイクルなどの仕事の進め方は、効率的な業務という観点において十分に機能していました。また、これらの仕組みや管理は依然としてある程度必要です。ただこれからは、こうした仕組みは、よほど考えて運用しないと、変化に適応するにはマイナス面もあるのです。そのために先述の組織の価値を高める4つの原則を、従来の仕組みに加える必要があります。何ひとつ難しいことも提案していません。ただ、既知のことを活用する仕組みと、変化に適応する仕組みの両立に正面から取り組んでいる組織は少ないと思います。一度成功した企業は、どうしても既知を活用する守りの姿勢が目立ってくるのです。ですから、両方が大事になるのです。

事業廃止で迫られて見つけた、新たな研究ジャンル

技術者の私が、畑違いの「幸せ」について追求することになった経緯について振り返りましょう。私は日立製作所に入社以来、半導体の開発・研究を重ねてきましたが、20年経って半導体事業から撤退することになりました。予測もしていなかった“青天の霹靂”な現実でした。打ち込んできた仕事がなくなり、会社員としては、新しい研究分野を探す必要がありました。その転換期に考えたテーマが「データを社会やビジネスに活用する」ことでした。特に、人間のデータはとても大事なのではないかと、直感的に思い至ったのです。

偶然ですが、ちょうどその頃「人の幸せや前向きさ」について科学的に研究する「ポジティブ心理学」が胎動していました。その研究成果には「人の生産性と人の前向きさや幸せに相関関係がある」という論文もありました。この分野に取り組まれてきたひとりが、フローと呼ばれる集中状態の概念を提唱したことでも知られるアメリカの心理学者、ミハイ・チクセントミハイ教授でした。私は、彼をはじめとするハピネスやウェルビーイングを研究する先駆者たちへ、時には押しかけるような形でコンタクトを取り、共同研究も含め「人の幸せの本質」について、これまで多くのデータを積み上げてきました。その成果は、「幸せ」はデータによって可視化できるというものでした。これらを基にして2014年に上梓したのが、『データの見えざる手』です。

これまで18年にわたり、日立グループをはじめ、多種多様な企業に協力をいただき、「人の身体運動やコミュニケーションや幸せに関するデータ」を蓄積してきました。私自身は、過去16年に渡り24時間の身体運動のデータを収集してきました。そこで得られた知見により「幸せな状態」とは何か、を可視化しました。「幸せ」の数値化によって、いかにして組織の中で人間は「幸福感」を得られるのかに関する多くの知見が得られました。その成果を日本はもとより、世界の人々のために役立てたいと考え、私は2020年8月に「ハピネスプラネット」という会社を設立し、予測不能な時代において、人や組織がいかに幸せで生産的になれるか、すなわちウェルビーイングな社会を実現できるかを追求しています。(第2回へつづく)

「第2回:幸せとは『楽でゆるい状態』ではない」はこちら>

矢野 和男(やの・かずお)
1959年、山形県酒田市生まれ。1984年、早稲田大学大学院で修士課程を修了し日立製作所に入社。同社の中央研究所にて半導体研究に携わり、1993年、単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功する。同年、博士号(工学)を取得。2004年から、世界に先駆けて人や社会のビッグデータ収集・活用の研究に着手。著書に『データの見えざる手 ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』(2014年)、『予測不能の時代 データが明かす新たな生き方、企業、そして幸せ』(2021年)。論文被引用件数は4,500件にのぼり、特許出願は350件超。東京工業大学 情報理工学院 特定教授。