「あなたは何者か?」そう問われたとき、あなたならどう答えるでしょうか。

名前、職業、資格、勤務先や役職、家族構成、趣味…自分にまつわるさまざまな物事が思い浮かぶことでしょう。けれど、それらの要素はどれも、あなたのある一面を説明しているにすぎません。あなた自身は一体、何者か分かりますか。

この問いに、禅の宗祖である達磨大師は「不識」(ふしき)と答えました。かつて達磨大師がインドから中国の梁(りょう)に渡ったとき、国を治めていた武帝から宮廷に招かれました。仏教に帰依していた武帝は、高名な達磨大師と問答ができると喜び勇んで質問を投げかけます。

「朕、寺を立て僧を度す。何の功徳か有る(私は仏教に貢献してきた。どれだけ利益(りやく)が得られるか)」
「無功徳(利益などない)」
「如何なるか是れ聖諦第一義(仏法の真理は何か)」
「廓然無聖(一点の雲もない空のように、晴れやかで真理も迷いもない空っぽの状態だ)」
「朕に対する者は誰ぞ(私の前に居るあなたは誰だ)」
「不識(知らない)」

達磨大師は禅の精神を真摯に伝えているのですが、武帝は理解できなかったといいます。

考えてみれば、自分が何者であるかなど、分からなくて当然です。私たちはよく「自分は短気な人間だ」などと自分を評しますが、それは往々にして自分の勝手な思い込みにすぎないものです。自分の思う自分と、他人から見たあなたの印象は異なっていることも多いでしょう。あなたが自分だと思っているものは、主観的な意識の中の自分、言いかえると脳内での自分であり、実在としての自分、「ほんとうの自分」など、どこにもないのかもしれません。達磨大師は、そうしたことを言いたかったのではないでしょうか。

ところが人は、実体があるかどうか分からない自分自身に対しても「こういう人間だ」という思い込みに縛られがちです。そしてそのことはいろいろな物事の妨げになります。例えば人と人との意思疎通、相互理解もそうでしょう。「自分は古い人間だから、若い人の考えは理解できない」「自分は日本で生まれ育ったから、外国人の価値観は受け入れられない」そんなふうに思ったことはありませんか。

グローバル化の時代、海外に進出する企業や海外企業を買収する企業が増えています。現地採用の従業員や買収した企業の従業員に自社の経営方針を理解してもらい、経営理念を浸透させるにはどうすればいいのか悩んでいるという話も耳にします。文化や習慣の異なる国の人たちと、互いに理解し合うことは簡単ではないでしょう。「自分は日本人だから」などと言っていたのでは、なおさらです。

人はとかく相手を理解する前に自分を理解させよう、自分を変える前に相手を変えようとしがちです。でも、こちらが自分をぶつければ、相手も自分をぶつけてきます。それではいつまで経っても分かり合うことなどできません。

さきほどの話を思い出してください。「自分」などというものは、あるかないかも分からないようなもの。そのようなものにこだわる必要がありますか。

達磨大師が中国の梁の武帝の問いに返した「不識」

だから一度、自分を捨ててみることです。そして空になったところへ、相手を受け入れてみる。受け入れるというのは、すべてを許容することではありません。働き方や仕事の進め方のような譲れる部分と、企業理念や経営方針のような譲れない部分があるのは当然ですから、理解し合うためにはそれらをすり合わせていくことが必要です。それもまずは相手を受け入れてみないことには始まりません。

自分など何者でもないと識る。自分を理解することも、相手を理解することも、そこから始まります。

平井 正修(ひらい しょうしゅう)

臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授、2018年、大学院大学至善館特任教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。