「第1回:長期利益という社会貢献。」はこちら>
「第2回:『E』は規制ではなく実需。」はこちら>

※本記事は、2021年7月1日時点で書かれた内容となっています。

次はESGのS、社会についてです。Sにはいろいろな切り口があると思いますが、ぱっと思いつくのはダイバーシティーなど人の問題、従業員の問題、女性の活躍推進、LGBT、働き方改革といった論点でしょう。

多くの人と同様に、もっと女性が活躍できる世の中になるべきだと僕も思います。フェミニズムのような思想もあれば、これまでの歴史で女性が理不尽な犠牲を払ってきたという事実もありますが、僕の考えは、女性が活躍した方が単純に「商売として得」だというものです。普通に考えて女性、男性それぞれにいろいろな人がいて、能力というのは同じように分布しているはずです。人口の半分は女性なので、これを母集団から外すというのは、とんでもない損失です。長期利益を上げるための能力をもっとも合理的な方法で手に入れようと思えば、女性の活躍という伸びしろのある分野に着目するのは自然にして当然です。LGBTにしても、性的なマイノリティーをどんどん包摂していったほうが、商売の損得で考えて大いに得であるはずです。

Sについて僕が今気になっているのは、SDGsの方です。貧困の撲滅とか飢餓をゼロにといった17個のターゲットが設定されています。誰が聞いても間違いなく重要にして「良いこと」です。SDGsは誰も反対しない正論なのですが、スーツやジャケットの胸に付けているSDGsのカラフルな輪のバッジを見るたびに、思うことがあります。

行政官とか公務員、政治家がSDGsバッジを付けているのは、まあ理解できます。しかし企業の経営者がしたり顔でバッチをつけているのを見ると、「その前にやるべきことがあるのでは」と思うのです。SDGsの一番はじめに出てくる目標は「貧困の撲滅」なのですが、SDGsバッジの経営者を見るたびに「だったら、自分の会社の従業員にもっと給料を払うべきではないですか」と言いたくなる。従業員が納得する給料も払えない企業が、何でアフリカの貧困を撲滅できるのか、と思うわけです。

日本の上場企業の平均値を見てみますと、財務的な成果指標であるROA(総資本利益率)やROE(自己資本利益率)は、この10年間で改善傾向にあります。ところが、労働分配が減っているのです。つまり財務指標をよくする背後で、賃金が犠牲になっている。最低賃金を上げろという議論に僕は大賛成なのですが、それはあくまでも政治レベルの意思決定です。それはそれで大切なことですが、もっと大切なのは経営者が労働分配を増やすということです。原資がないと払えませんから、結局のところ、きっちりと儲かる持続的な商売を経営者がつくることがベースとして必要になります。Sを良くしようと思ったときに企業ができることを突き詰めると、儲かる商売に行き着く。つまりここでも結論は長期利益ということになります。

企業が評価される場としては、3つの市場があります。1つが資本市場。ここで株主や投資家から評価される。2つ目が製品やサービスの競争市場。ここでお客さまから評価される。3つ目が労働市場です。労働市場で働き手から評価される。元々競争市場からのプレッシャーは効いていました。日本でもこの10年間で、資本市場からの規律が効き出しました。やっぱり人間がやっていることです。規律が働かないと、どうしても緩む。資本市場での株主からの規律が効いて、ROEは向上しました。

ここへ来て人手不足という人口統計的な課題があって、ついに日本でも労働市場からの規律が効いてきた。これは日本にとってひとつの希望だと思うんです。私見では、人手不足は21世紀の日本に降り注いできた最大のチャンスです。例えば「働き方改革」。理不尽な職場をなくしてもっと働きやすい環境をつくることで生産性を上げる。これは30年前だったらただの掛け声だったと思います。ところが、今となっては、働きたくなる職場でないと働き手が来てくれない。これは素晴らしい変化です。Eが競争市場での実需になってきたのと同様に、Sが労働市場における実需になってきたということです。

労働市場から評価されない企業は、淘汰される時代になりつつあります。だとしたら、Sがちゃんとしていない企業は、持続的に儲けることができないという成り行きです。このように、S問題も結局のところ長期利益に収斂するというのが僕の見解です。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。

著書に『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)、『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

「第4回:『G』の本領は株主との対話。」はこちら>

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