山口 周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー/楠木 建氏 一橋ビジネススクール教授
「リベラルアーツはその人の価値判断の基準となるもの」という楠木氏の定義を受け、山口氏は「価値判断」の中身について掘り下げていく。価値判断の基準となるものさしは自分の内側と外側にあるが、リベラルアーツがかかわる内側のものさしこそが重要であるという。

「第1回:固有の価値基準を持っているか」はこちら>

いいことの中からどれを選ぶか

山口
リベラルアーツは価値判断の基準になるものとおっしゃいましたが、「価値判断」というのは、なかなか深い意味のある言葉だとあらためて思います。経営学では、企業の価値はバリュエーションの計算式に数値を入れて、算出した結果で評価されますよね。その計算式がものさし、価値判断の基準になっています。一方で、そのものさし自体は本当に優れているのか、正しいのかという判断もあります。つまり「価値判断」には、あらかじめ与えられたものさしで判断をする階層と、ものさし自体の価値を問う階層という2つの階層があると思います。

リベラルアーツが関係するのは、ものさし自体の価値を問う階層ですね。価値判断の基準そのものに批判的な眼差しを向けられるかどうか。自分の外側にあるものさしから自由になれるかどうかにかかわっています。

楠木
山口さんが『ビジネスの未来』に書かれていたように、GDP(国内総生産)というものさしは、もともとアメリカで、世界大恐慌の影響によっておかしくなっている社会と経済の状況を全体として把握したいという目的のために開発されたものですよね。ある種の価値判断に使おうという目的があって開発された指標なのに、今やそれが国の価値を計る指標となり、その数値を高めることが目的のようになっている。だから、ものさし自体を疑う必要があるのではないか、何をよしとするかは自分で決めるべきではないかと。

私の専門である競争戦略に関連して言うと、経営者はさまざまな戦略的意思決定を行います。例えばA、B、Cという3つのオプションがあって、何らかのメカニカルな技術を駆使してそれぞれの期待利益率を計算したら、Aは10%、Bは20%、Cは30%となりました、いちばん高いCを選びましょう、というのは意思決定とは言えません。価値判断を伴っていないからです。戦略的に重要な判断ほど、単純に「いいことを選ぶ」のではなく、「いいことの中からどれを選ぶのか」が問われます。それが本当の意味での意思決定であり、選ぶ時にはその人の中にあるものさし、リベラルアーツが必要です。リベラルアーツなしには経営はできないはずです。

同時代性の罠にとらわれないために

山口
先生にぜひ伺いたいと思っていたのが、経営における戦略と自由度の問題です。戦略を決めるとき、一般的には資源を分散するのではなく集中して投入するのがよい、中途半端はよくないと言われています。一方で、さきほどお金があるとオプションが広がるとおっしゃっていましたが、経営でもオプションが多いのはよい状態ですよね。

楠木
そうですね。

山口
オプションが少なくなることは、必ず何らかの危険を伴うことになる。こうした選択と集中と、オプションの多さ、自由度の高さの兼ね合いという問題は、どのように整理できるのでしょうか。

楠木
たしかにオプションがたくさんあることはある種の自由なのですけれども、リベラルアーツ=自由になるための技術というときの自由は、人のつくった基準に従属していないという意味ですよね。「自(みずか)らに由(よ)る」ということです。豊富なオプションを抱えていても、結局はその中から何かを選択しなければなりませんから、ほんとうに重要なのは何を選ぶかであり、その選択は意思決定者の価値基準に基づいて行われます。

そう考えると、自分の価値基準がしっかりとあって、それに忠実に生きるということは、傍から見れば不自由であるかのように見えるかもしれないですね。実際は自分に従っているだけなので自由なのですが。

山口
そのことに関連して、先生の『逆・タイムマシン経営論』はたいへん楽しく拝読しましたけれど、その中に「同時代性の罠」というキーワードがありましたね。私は「呪い」と表現していますけれど、その人の行動の自由度を狭めるトラップが世の中にはあります。例えば今なら「DX(デジタルトランスフォーメーション)」ですね。デジタル化しないと時代に取り残されると言われる。あるいは昔の「400万台クラブ」。スケールの小さい自動車メーカーは淘汰されると言われた。そうした呪いが、経営の世界でも個人レベルでも昔からたくさん言われ続けています。

先生は「戦略とは特殊解である」とおっしゃっていますね。つまり、「◯◯で成功した」というのは、あくまでもその企業やその人独自の戦略ストーリーにおいて成果が得られたということであって、「◯◯」だけを切り取って持ってきても成功するわけではないと。そこを勘違いしてはいけないのですが、「これからは◯◯だ」というトラップ、呪いと言うべき風説がさまざま流布される世の中で、それに惑わされずに自由を保つということは、やはりものすごく勇気が要ると思います。

楠木
そうですね。まさに呪いですね。「おまえに呪いをかけてやるぞ」と言われて喜ぶ人はいないはずなのに、「これからはDXですよ」、「ジョブ型雇用ですよ」という呪いは、むしろかけてほしがる人がいます。リベラルアーツがないと、呪ってもらわなければ何がいいことなのか自分で決められないからです。もちろんDXもジョブ型雇用も武器になるものですが、それでうまくいくかどうかは個別の問題です。ですから、経営の1丁目一番は教養なのです。

楠木 建

1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)をはじめ、著書多数。最新著は『逆・タイムマシン経営論』(2020,日経BP社)。

山口 周

1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)など。最新著は『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。

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