企業がなかなかイノベーションを起こせないのはなぜか。部署の壁を越えたコミュニケーションが加速しないのはなぜか。2006年、社内勉強会の立ち上げに参画した日立の佐藤雅彦は、活動を設計するにあたり、経営学や経済学の理論にそのヒントを求めた。試行錯誤の末にたどり着いた活動のコンセプト、そして運営の工夫とは。

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イノベーションを妨げる2つの「重力」の正体

近年再び注目を集めている、「両利きの経営」。実は、社内勉強会を立ち上げた2006年前後、佐藤雅彦はすでに「経営は現在と未来の二刀流が大事だ」と語る社内の先輩たちの声を耳にしていた。「しかし、両利きの経営という観点で言うと、日立には2つの重力がのしかかっていたように思います」と佐藤は当時を振り返る。

その1つが「コンピテンシー・トラップ」だ。異業種など自己の認知から離れた知を幅広く探し、自分が持つ知と組み合わせる「知の探索」。一定の分野の知を継続して深め収益化する「知の深化」。イノベーションを起こすには、この両方に高次元でバランスよく取り組む「両利きの経営」が求められる。しかし実際は、既存事業で成功しているとついつい「知の探索」がおろそかになり、「知の深化」に集中してしまうという傾向だ。

マイケル・L・タッシュマン、チャールズ・A・オライリーⅢ世 共著『競争優位のイノベーション』、入山章栄著『ビジネススクールでは学べない世界最先端の経営学』をもとに作成。

もう1つは、経営学者で多摩大学大学院教授の紺野登氏が提唱する「二階建ての経営」において発生する重力だ。イノベーションを起こしている企業を二階建てに例えると、1階では既存事業で収益を生みながら、2階では新規事業の創出に向けた試行錯誤を行っていると紺野氏は説く。

「ところが当時の日立は、そこにジレンマがありました。まるで重力がかかったように、ついつい目の前の業務にばかり集中しがちでした。このままではいずれ日立は世の中の流れに追いつけなくなってしまう。そんな危機感を抱きました」

西口尚宏、紺野登 共著『イノベーターになる 人と組織を「革新者」にする方法』を参考に作成。

「二階建ての経営」を提唱する紺野登氏(左)と佐藤雅彦。

その頃、佐藤はファイナンスや経営学を学ぶため通っていたMBA社会人大学院で、菊澤研宗氏(現・慶応義塾大学商学部・商学研究科教授)が教える組織経済学という学問に出会う。このときの衝撃が、活動の方向性を決定づけた。

「2つの重力がなぜ生じるのかをちょうど考えていた頃に講義で知った『限定合理性』と『取引コスト』という概念が、とてもしっくり来たのです。人間が情報を収集・処理・伝達する能力は限られており、しかもコミュニケーションにはさまざまな取引コストがかかってしまうので、一人ひとりが限定的な情報のみで合理的に判断した結果、新しいことが起こせていない。すなわち、決して意欲がないわけではないのだと。現場が抱いている危機感や幹部が認識している自社の強みなどの情報を、役職や部署をまたいで共有し、イノベーションを起こせるようなしくみを日立につくりたいと考えました」

H.A.サイモン著『経営行動』、菊澤研宗著『組織の不条理』をもとに作成。

「共感」と「越境」のネットワークをつくる

とはいえ、限定合理的な価値観の人々が組織と階層の枠を超え、情報を正しく伝達しあうことは、大きな企業ほど難しい。そこで佐藤が着目したのが、第1回でも触れた、同僚や海外出身者による個人のネットワークの活用だ。ヒントになったのは、経済学者アダム・スミスによる2つの古典、『国富論』と『道徳感情論』。『国富論』でスミスは、分業は人々が相互に利益を得るために生まれ、高い生産性をもたらす点を指摘している。一方で『道徳感情論』では、人間は他人の状況を想像することで共感でき、さらに相互に共感しあうことで喜びの感情が生まれると説く。佐藤はこの「利害」「共感」という2つの世界観を社内の人間関係に当てはめ、次のように図式化した。

アダム・スミス著『国富論』『道徳感情論』を参考に作成。

「組織同士や上司・部下は利害関係でつながっています。組織の壁を越えて何か新しいことを起こそうとなると、上司を通じて依頼する手間が発生するので、自由なコミュニケーションが生まれにくい。しかし、利害でつながっているからこそ組織には、ビジネスを実行し、成果を生み出す力があります。また、利害が不正を防ぐチェック機能にもなります。これに、共感でつながり未来への構想力を持った個人のネットワークを加え、利害の世界観と共感の世界観の橋渡しができれば、組織の壁を越えたコミュニケーションと実行力の両立が実現できるはずだと考えました」

実際、日立で活躍している同僚を見ていると、ビジネススクールや異業種交流、社会人サークル、地元のボランティアなど、みな何らかの形で所属部署から「越境」した活動をしていることに佐藤は気づいた。イメージしたのは、いわゆる「越境人財」を社内に育てるしくみ。各組織から越境してきた個人がTeam Sunrise(当時はグローバル若手会)というネットワークに参加し、アイデアを出し合う。それぞれの『知』が結合するだけでなく、各々が自分の組織に新たな知見を持ち帰ることで、「知の再結晶化」が起こるというサイクルだ。

Team Sunriseの活動経験にもとづき佐藤が考案する、「知の再結晶化」のイメージ。

「講師を招いて勉強会を行うだけでなく、アイデアを抱える従業員が気軽に相談できる窓口を設けました。さらに、その相談事に共感したメンバーが自主的に集まってディスカッションし、顧客や幹部に提案したり、日立のアイデアコンテストに応募したりといった活動をする。そして最終的にはオフィシャル化をめざす。つまり、事業化して本業のビジネスで成果を出す。まさに、『二階建ての経営』の2階部分に取り組みながら1階部分で成果を出す、両利きの経営を実践できる場づくりをめざしました」

予算なき運営

ここで気になるのは運営方法だ。勉強会を開催するにも場所と時間が要る。外部から講師を招くこともある。費用はどう工面するのだろうか。

「活動から生み出せる成果を約束できないので、当然ながら予算は付きません。それでも幸い、わたしたちの活動を応援してくれる人が日立のいろいろな組織にいます。いわばスポンサーになってくれる部署を探し、その部署とのコラボという形で会議室なども使わせてもらい、イベントを運営しています。ときには著名な方に講師としてお越しいただくこともありますが、無報酬、または事業所が費用をサポートする形でご講演いただいています。我々の草の根的な活動に共感いただけたことで、Team Sunriseとしてお金をかけずに活動ができているのです」

メンバー間の情報共有と社内への情報発信には、当時3万人近くの従業員が利用していた社内SNS「COMOREVY(こもれび)」を利用した。新しい事業をつくりたい、新事業の顧客探しで困っている、こんな活動がしたいので仲間が欲しい、最近気になっている著名な人物に講演をお願いしたい……そういった相談を気軽にでき、しかも実現に向けて協力しあえる場。Team Sunrise(当時はグローバル若手会)の活動は口コミで広がり、日立製作所だけでなくグループ会社の従業員からも多くの相談が窓口に寄せられるようになり、徐々に仲間が増えていった。

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佐藤 雅彦(さとう・まさひこ)

NGOのIT責任者を経て、2001年日立製作所に入社。情報通信事業のシステムエンジニアリングや新会社設立、M&Aなど新事業企画に従事しながらMBAを取得。本社IT戦略本部などを経て、2018年より日立製作所 研究開発グループ 社会イノベーション協創統括本部 主任研究員。2006年より継続する社内ネットワーク活動「Team Sunrise」(旧称:グローバル若手会)の代表を務める。東京工業大学 環境・社会理工学院 イノベーション科学系 博士後期課程に在学中。