明治期に始まる産業振興と文明開化、日本社会の近代化に多大な影響を及ぼした岩倉使節団。産業史的な観点から、いま一度この偉業を見つめ直し、閉塞感ただよう現代と、将来を見据えた希望の灯を見出したい。岩倉使節団の足跡を辿る連載シリーズの初回、岩倉使節団以前の江戸末期の混沌とした情勢を俯瞰し、開国の後、統一国家形成に至るプロセスを駆け足で振り返ってみたい。

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阿部正弘の肖像。福山誠之館同窓会所蔵

ペリー艦隊の衝撃と開国維新

1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、黒船四隻が江戸湾に出現した。それは高性能の大砲数十門を備え、うち二隻は蒸気機関によって自在に走り回る最新の見たこともない黒い怪物だった。 当時、日本にも大砲はあったが大半の射程距離は1,000メートルに達せず、黒船の2,000~3,500メートルにはとても及ばなかった。江戸湾の奥まで進めば、江戸城を簡単に破壊できるのだ。江戸の民が大騒ぎをするのは当たり前である、真偽さまざまな情報が伝わり、出来たのがあの狂歌である。

「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も寝むれず」

上喜撰は名茶の銘柄であり、蒸気船に掛けたのだ。江戸湾に乗り入れて来た黒船は最新の兵器であり、モクモクと黒煙を吐き出し重砲を羅列して走る姿は、得体の知れぬ恐怖を見る人に与えた巨大な魔物であった。

当時、幕政を担っていた最高責任者は老中首座の阿部正弘であった。幕閣の中枢はすでにオランダ商館長からの風説書でアヘン戦争によって中国が香港を割譲されてしまったことを知らされており、早晩欧米諸国から黒船が来て開国要求をつきつけられることを予測していた。しかし、眼前に出現してみるとその衝撃は想像に余りあるものがあった。

先覚者佐久間象山は、この報に接すると直ちに浦賀に直行した。最先端技術に詳しい佐久間は持参の望遠鏡で黒船を凝視した。四隻の艦隊はみな砲門を開き臨戦態勢にあることを確認した。弟子であった吉田松陰も浦賀に急行し、その黒船の威容を目の当たりにするのだ。

阿部は歴史的国難来たるとの認識から、それまでの慣例を破って全国の大名や旗本、公家や識者にも意見を諮問した。当時のご意見番、徳川斉昭をはじめ開明派の有力大名たち、島津斉彬、鍋島直正、松平春嶽(しゅんがく)、一橋慶喜はむろん、その部下たち、勝海舟や橋本佐内、藤田東湖や江川太郎左衛門など、如何にして国を守るかの海防論が全国に沸き上がった。

世界情勢に通じているものは「開国やむなし」という意見だった。しかし、阿部は幕府始まって以来の大事であり、天皇の勅許をうけることが必要と考えた。そこで老中堀田正睦(まさよし)が京都に上り朝廷にお伺いを立てた。が、孝明天皇は生来の西洋嫌いであり、公家たち特に岩倉具視らの強硬派は時期尚早であると猛烈に反対し、勅許は得られなかった。

そして国論は「攘夷か、開国か」に分かれ、テロを伴う争乱となって全国に波及した。その渦中、大老となった井伊直弼は一存で通商条約の締結に踏み切る。米国の総領事タウンゼント・ハリスの進言「グズグズしていると大英帝国がやって来てもっと不利な条約を結ばされるぞ」を恐れたからだ。井伊の決断は英断といえる。が、その独裁的な手法には反発が強く、危機感を覚えた井伊は猛烈な弾圧に転じ、水戸藩主をはじめ有力大名を閉門蟄居させ、攘夷派の志士吉田松陰や橋本佐内ら多くの人材を処刑してしまった。いわゆる「安政の大獄」である。しかし、それは底知れぬ恨みを買い、周知のとおり、万延元年井伊は桜田門外で首をはねられるのだ。

こうした混乱の中、徳川慶喜が将軍となり、幕政の改革、倒幕勢力の懐柔鎮圧を図る。が、長く泰平に馴れた幕藩体制ではこの歴史的大変化に対応できず、外様雄藩たる薩摩長州の同盟が成立して倒幕勢力が有力となり、ついに鳥羽伏見の戦になって天皇を中心とする統一国家の成立になっていくのだ。

※日立「Realitas」誌25号に掲載されたものを、著者泉三郎氏の許可を得て再構成しています。

泉 三郎(いずみ・さぶろう)

「米欧亜回覧の会」理事長。1976年から岩倉使節団の足跡をフォローし、約8年で主なルートを辿り終える。主な著書に、『岩倉使節団の群像 日本近代化のパイオニア』(ミネルヴァ書房、共著・編)、『岩倉使節団という冒険』(文春新書)、『岩倉使節団―誇り高き男たちの物語』(祥伝社)、『米欧回覧百二十年の旅』上下二巻(図書出版社)ほか。

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