矢野 和男 日立製作所 フェロー / 山口 周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー
自身のAIプログラム開発の経験を踏まえ、矢野フェローは経済活動における投資の考え方を転換することが必要ではないかと問う。さらに、予測不能な未来に向き合うとき、個人、企業や社会にとっての揺るがない目的として「幸福」を据えることの意義について語る。

「第1回:幸福とは何かをあらためて考える」はこちら>
「第2回:複雑な現象を統一的に理解したい」はこちら>
「第3回:物理学の視点で社会の動きを見る」はこちら>
「第4回:データとAIで未来を見通すことはできない」はこちら>

人の成長に投資するという考え方

山口
矢野さんのブログを拝読して興味深かったのは、AIの開発に60日かかっていたのが、経験を積んだことにより3日でできるようになることは、「実験と学習」への投資の結果であるというお話です。

矢野
昨年あるAIのプログラムを書いたのですが、1年間にわたって試行錯誤を繰り返し、最初のバージョンから100回近くも改良したので、正味60日分ぐらいの時間がかかりました。AIのプログラムって実は1,000行程度で、それほど巨大なものではありません。普通のプログラムよりも一段上位の概念で記述していて、逐一指示を書かなくても機能するため結果は短くてすむのですが、状況によらずに汎用的に対処できるようにするには何度も試行錯誤が必要でした。

ただ、もし今そのソースコードが消えてしまい、もう一度書いてみろと言われたら、おそらく3日程度で済むでしょう。中身は隅から隅まで頭に入っていますし、どこが肝なのかもよくわかっているからです。

このことは、問題の捉え方がよくわからなかった未熟な私が、1年かけて、複雑で汎用的な問題解決法であるプログラムをつくることのできる私自身に成長したことを意味しています。これを投資と見れば、プログラムというモノの生産に投資したのではなく、私という人間の1年間の実験と学習に投資したのだと言えます。その結果、私が成長したことが生産であるということです。生産とは形のあるモノを外に生み出すということだけではなく、人の能力を高め、成長させることだという見方もできると思います。

山口
近年、経済における無形資産の重要性が高まっていて、全米企業のバランスシートの中で無形資産の占める割合が80%に達するという試算もあります。バランスシートに載らない無形資産こそが重要だという議論もあり、AIの開発期間を短縮する能力などは、そうした無形資産の最たるものだと思います。個人の能力が高まったことは企業のアセット(資産)が増えたことになるのに、今の財務会計方法では数値化できないわけですよね。そう考えると、価値というものの捉え方を変えていく必要があるのかもしれません。

矢野
人間の成長は、試行錯誤、あるいは実験と学習によって得られるものです。人の成長に投資するということは、一定の枠は必要かもしれませんが、実験と学習のための自由を与えることであるというふうに、考え方を転換していく必要があると思っています。

予測不能な未来に向き合うとき、必要なもの

山口
モノではなく人をつくるという視点が、企業や経済の成長には必要ですね。それが、幸せな組織とか、幸せな働き方にもつながっていくように感じます。

矢野
そうですね。予測不能な未来に向き合うとき、人が生きる目的、企業や社会が成長する目的という軸を据えることは、極めて重要です。私は、「幸せ」や「ハピネス」という概念は、誰にとっても揺るがない目的になり得ると考えています。だからこそ研究テーマに据えました。幸福が無条件に究極的な性質を持つものであるということは、すでに古代ギリシア時代、アリストテレスが『ニコマコス倫理学』(※)の中で説いています。

幸福というものは漠然としているように思えますが、近年は組織運営にそうした概念を取り入れるための研究も盛んになり、幸福とは何かを具体的な要素に分解して理解するために、データやAIが活用され始めています。個人を幸せにする、企業とそのステークホルダーを幸せにする、あるいは社会を幸せにするということは、不確実な時代における確実な目的となり得るのではないでしょうか。その目的に向かって、3つのPという方法論で近づいていくのが合理的ではないかと思います。

山口
かつてのように物質的な豊かさが幸せの実感につながらなくなった現代において、幸福の実現において大切なポイントは何であると思われますか。

矢野
いろいろな考え方があると思いますが、1つはわれわれが取り組んでいるように、幸福、人間や社会というものを、データを利用して科学的に理解することですね。お話ししてきたとおり、教育や投資に対する考え方を転換していくことも重要です。また、物質的な豊かさが増した一方で、格差の問題は拡大していますよね。社会全体の幸福を考えると、この問題をどう解くかが非常に重要です。

最近では、SDGs(Sustainable Development Goals)やESG(Environment、Social、Governance)のような、より高い視点から社会、企業活動の目的を考えることが重視され始めています。もう一段上位の幸福というものを軸にしたものの見方も、今後広がっていくのではないでしょうか。

新型コロナウイルスでは世界中で何十万人もの方が亡くなり、社会活動の制限によって経済的な困窮も生じるなど、多くの不幸がもたらされました。この災禍が、普遍的な価値としての「幸福」についてあらためて考え、社会活動の軸としていくきっかけになることを願わずにいられません。

(※)ニコマコス倫理学 古代ギリシアの哲学者アリストテレス(紀元前384~322)の主要著作の1つであり、倫理学に関する著作や講義ノートなどを息子のニコマコスらが編纂した書物。全10巻から成る。万人が人生の究極の目的として求めるものを「幸福(よく生きること)」であるとし、その概念について精緻に分析している。

矢野 和男(やの かずお)

1959年山形県生まれ。1984年早稲田大学大学院理工学研究科物理学専攻修士課程を修了し日立製作所に入社。同社の中央研究所にて半導体研究に携わり、1993年単一電子メモリの室温動作に世界で初めて成功する。同年、博士号(工学)を取得。2004年から、世界に先駆けてウェアラブル技術とビッグデータ収集・活用の研究に着手。2014年、自著『データの見えざる手 ウェアラブルセンサが明かす人間・組織・社会』が、BookVinegar社の2014年ビジネス書ベスト10に選ばれる。論文被引用件数は2,500件にのぼり、特許出願は350件超。東京工業大学情報理工学院特定教授。文部科学省情報科学技術委員。

山口 周(やまぐち しゅう)

独立研究者・著作家・パブリックスピーカー。1970年東京都生まれ。電通、BCGなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』、『武器になる哲学』など。最新著は『ニュータイプの時代 新時代を生き抜く24の思考・行動様式』(ダイヤモンド社)。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。

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