一橋ビジネススクール教授 楠木 建氏

今回のテーマは「幸福について」。世の中、幸福になりたくない人というのはまずいません。幸福になりたい、その一点では人間は共通しています。例えばある音楽が好きという話でしたら、好きではない人にはものすごく迷惑な話ですが、幸福に関しては、天気と同じように共通の話題として対話することができます。幸福は人類全員の関心事です。幸福をテーマにした本が次々に出版されるわけです。

ただ、その幸福の内実が何かを問われると、人によって大きく異なります。「みんな同じで、みんな違う」、それが幸福のとても面白いところだと思います。

これほど共通していて、これほど違うこともないという主観の極み、それが幸福です。外在的に、ある出来事とか事実に対してそれが幸福か不幸かということは、誰にも決められません。人によってはすごく幸福なことが、別な人にはとんでもない不幸だということは、よくあることです。

子どもの頃は、大体みんな同じようなことが幸せで、同じようなことを不幸だと思います。それが歳を重ねるに従って、いろいろな経験をしたり、自分の性格が固まってきたり、自分のテイストについて理解が深まったりしていくことで、幸福の多様性が広がっていく。ですから、僕のようなド中年になると、ある人にとっての幸福が、ある人にとっての不幸だっていうことがいよいよ顕著に出てきます。

例えば個人的な好みで言うと、僕は“豪邸”をあげると言われても断ります。子どもの頃は大きい家へのあこがれもあったのかもしれませんが、今となっては不要です。フェラーリをタダであげると言われても、いりません。いま乗っているトヨタ・アクアとフェラーリ、どっちかを選べと言われたら、迷わずアクアを選びます。

そんな僕が直面している課題、それが先日の山口周さんとの対談でもお話しした『黒い巨塔』問題です。大学病院の権力闘争を描いた山崎豊子さんの長編小説に『白い巨塔』があります。映画やドラマに何度もなっているのでご存知の方も多いと思います。大学というのは、そういう権力争いとか派閥闘争が渦巻いているというイメージがあるかもしれません(実際はそういうことはほとんどありません。ま、どこかにはあるかもしれませんが、僕の周辺で見聞きしたことはありません)。今僕が直面しているのはその逆でありまして、いかに偉くならないで“ヒラ”教授のままでいられるかという闘争です。ですから、『逆白い巨塔』または『黒い巨塔』なわけです。

『白い巨塔』が描いている権力闘争というのは、学部長とか、教授とか、そういう権限のあるポストをめぐる闘争です。基本的なメカニズムは、限られたポジションなりポストを、誰が取るのかという競争なんです。そこにある前提は、「偉くなることは幸せである」です。『白い巨塔』の主役である財前五郎さんは、医学部長、そして学長に昇りつめたいと強く思い、闘争するわけです。そのポストを手に入れることが、財前五郎の幸せだからです。

しかし僕にしてみれば、そういう学部長や研究科長はもちろん、あらゆる経営上の役職に就きたくないんです。なぜかといえば、それは僕にとってあからさまな「不幸」だからです。ここでも何度もお話ししてきたことですが、僕はそういうマネジメントとかリーダーとか経営の仕事をしたくないから、こういう仕事に就いて、これまで楽しくやってきたわけです。部下を引っ張っていくとか、会議で組織全体の判断をしていくとか、人事をどうするとか、そういうことがやりたくないので大学にいるのに、ディレクターとかそういう役職は僕にとって絶対に避けたいことです。

今年55歳で、年齢的にそういうことを期待される年回りになってきているのはわかりますし、僕も組織の中で一定の責任を持っています。子どもじゃないので、「嫌だ、嫌だ」とばかり言っていられません。つまりは、これを解決するには大学を辞めるという選択肢しかないのです。

どこか別の大学で、「そういう経営的なこと、マネジメント業務一切なしで、ただの一プレーヤーとして、一兵卒でのみやらせてもらえませんか」と言って受け入れてくれる大学があればそこへ移るかもしれませんが、そういう自己中心的な考えを受け入れてくれる場はなかなかないし、おそらく移ったら移ったで、またいろいろとあるはずです。世の中、そんなにうまい話はない。

昨年末に『黒い巨塔』作戦が発動したのですが、研究科長(上司)から「もうしばらくはディレクターにならずに現状のままでいい」という勝利を勝ち取りました。財前五郎のような偉くなるのが幸せだという闘争もあれば、一兵卒であることを願う僕のような闘争もある。これが幸福の面白いところです。

楠木 建

一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『室内生活 スローで過剰な読書論』(2019、晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる』(2019、文藝春秋)、『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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