一橋ビジネススクール教授 楠木 建氏

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僕自身の「近過去」の歴史を振り返ってみます。僕は1960年代のアフリカで育ちました。機械部品の会社に勤めていた当時20代の父が、南アフリカ共和国のヨハネスブルグに、支社長として行ってこいと命じられたからです。日本の海外市場進出というと、家電や自動車を思い浮かべる方も多いと思いますが、それは70年代以降。60年代は、繊維とか機械だったんです。

僕は日本人学校に入ったのですが、学校といっても人数が少ないので、校舎は普通の家でした。小1から中3までの生徒が、みんなそこで遊んでいる。そういうのどかな環境で、日本語で教育を受けるわけです。

そこには、日本人のコミュニティもできていました。その頃の海外進出は、商社が先頭です。まず、商社が商売のインフラのようなものを整えて窓口となり、その後でいろいろな機械メーカーや繊維メーカーが入っていく。そんな人たちがアフリカの南端で小さな日本人社会をつくって、肩を寄せ合って生きていたんですね。

当時はアフリカから家族を日本に帰すだけで、従業員5人雇えるぐらいのコストがかかりました。日本から南アフリカへ行くには、まずモスクワ経由でパリ、それからコンゴのキンシャサを経て南アフリカというような大旅行です。なので、赴任したら当分は帰れません。一時帰国なんてまずない。ネットもない時代なので、有線の音声電話が唯一の通信手段なのですが、これがものすごく高い。電話も自由にはかけられない。会社負担で、年に1回だけ日本と電話できる、それが唯一の母国とのつながりでした。

当時海外の前線でビジネスをしていた日本人は、エコノミックアニマルなんていう言われ方をされていました。訳がわからないけれども、とにかく海外でなんかやってこいみたいな時代ですね。日本と日本人がやたらと外向きでアグレッシブだった。

うちの父なんて、何にも知らない20代のあんちゃんです。入社して数年の、英語すらできない何にも知らない若造に、とにかく体ひとつで製品を売ってこいと。父は、南アフリカの前は香港とか東アジアで海外営業をしていたらしいのですが、その頃は、自分一人でサンプルをもってお客さんのところにリヤカーを引いて行ったっていうんです。

1ドル360円で外貨の持ち出し規制があるので、出張費もぎりぎり。お客さんと会う時にも、一番いいホテルで待ち合わせをしたときには、ロビーに隠れていて、お客さんが現れるといかにも泊っている風情で出て行った。本人は木賃宿みたいなところに泊まっているので、バカにされちゃいけないということで。

当時はこういう人がたくさんいた。高度成長期の日本で、何もわからずに頭から海外に突っ込んでいった。ようするに「グローバル二等兵」です。当時の日本のビジネスマン(もちろんそのほとんどが男)はなぜこんなにアグレッシブだったのか。「近過去」の文脈を考えてみると、いくつか理由をあげることができます。

まず第1に、国民国家的な心情として、戦争では負けたけど、経済では負けられないという理屈抜きのコンセンサスが、相当強くあったはずです。

第2に、もっと切実な理由として、その頃の日本の国内需要というのがまだまだ小さかった。規模の経済を追求するような機械部品で工場をつくって回してしまうと、日本だけではさばけない。世界に出て行って売りまくるということは必然でした。

そして第3に、僕が最大にして最重要の理由だと思うのは、当時の日本にいても「いいことがなかった」ということです。1960年代の日本は、まだ貧しいわけです。うちの親も、結婚して最初はアパートに住んでいました。お風呂は2日に1回、牛肉なんてめったに食べられない、一番のごちそうはお蕎麦屋さんから出前でとるカツ丼。そんなときに、南アフリカ行きの声がかかった。

南アフリカの通貨であるランドは、いま8円くらいですが、当時は400円です。世界最強通貨でした。金とダイヤモンドという天然資源があったからです。兌換(だかん)紙幣*の時代がすぐ前にあったわけで、金の裏付けをもって通貨は発行されていたんです。だから、金やダイヤモンドを持っている南アフリカは強かったわけです。

*兌換紙幣:金や銀などの正貨(本位貨幣)との引き換えが保証されている紙幣。

それで実際に行ってみると、楠木家の生活は一変します。まず家にはメイドさんが常駐しています。屋敷のバックヤードに長屋みたいのがあって、そこに住み込んでいる。朝起きるとメイドさんに、「ブレックファーストプリーズ」と言う。そうすると、「卵はフライド、ボイルド、スクランブル、何にしますか」と聞かれ、「卵はスクランブル、ジュースはオレンジ、お肉はベーコン、ちょっとカリカリにして」と。こういう生活です。ちょっと大きな家だとプールやテニスコートがあるのが当たり前。うちも、父がゴルフクラブでフルスイングしても、ボールは庭の端から端まで届かないような広大な家でした。

こんな話を持ちかけられたら、これはいい球が来たな、と思うのが普通でしょう。日本にいたっていいことない。大喜びで訳もわからず飛び込んでいったのが「グローバル二等兵」の実像でありまして、そういう人たちが世界の市場を開拓していったわけです。

時が流れて、日本の総需要も減ってきた。産業構造も変わったりして、改めてもっと外を向かなきゃいけない。そのとおりだと思います。でも、内向きでいられるのは、これこそ戦後日本の偉大な成果だと思うんです。こんなにご飯がおいしくて、安全。言葉も通じる。景気はいまひとつかもしれないけど、公共交通機関は発達し、福祉、医療も充実している。いま、ひとりでアフリカへ行ってこいと言われても、それはちょっと……となるのはきわめて自然なことです。

「近過去」を振り返れば、「グローバル二等兵」が率先して海外市場に進出し、みんなが頑張ったおかげで、内向きになれるという成果を得られたということがわかる。こうした歴史的文脈を無視して、日本人が内向きでグローバル化できないとか、それは農耕民族だからだとか島国根性だとか言うのは、人間と社会についての歴史的な理解がなさすぎる愚論だと僕は思います。

楠木 建
一橋ビジネススクール教授
1964年東京生まれ。幼少期を南アフリカで過ごす。一橋大学大学院商学研究科博士課程修了(1992)。一橋大学商学部専任講師、一橋大学商学部助教授、一橋大学イノベーション研究センター助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科准教授、2010年より現職。
著書に『「好き嫌い」と才能』(2016、東洋経済新報社)、『好きなようにしてください:たった一つの「仕事」の原則』(2016、ダイヤモンド社)、『「好き嫌い」と経営』(2014、東洋経済新報社)、『戦略読書日記』(2013、プレジデント社)、『経営センスの論理』(2013、新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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