一橋大学特任教授(PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座)楠木建氏/(株)日立製作所 Lumada Innovation Hub Senior Principal 加治慶光/(株)日立製作所 事業主管 Vice President AI Strategy(取材時) 黒川 亮
2026年2月13日、Lumada Innovation Hub Tokyoにて開催したウェビナー「楠木建さんと語る、フィジカルAI時代の競争戦略」採録の第4回は、楠木建氏、黒川亮と加治慶光の3名によるトークセッションの中編。技術革新と企業文脈の接続について論じられた。楠木氏は、戦略とは複数の「良いこと」の中から何を選ぶかという意思決定だと述べる。それは客観的な正解ではなく経営者の価値基準に依存するという。スキルが外部化する時代、人間に残されるのは「センス」である。

「第1回:黒川 亮 講演「日立のAI戦略~世界一のフィジカルAIの使い手をめざして~」」はこちら>
「第2回:楠木 建氏 特別講演「戦略ストーリーとDX」」はこちら>
「第3回:トークセッション(前編)」はこちら>
「第4回:トークセッション(中編)」

優れた経営者は「それでだおじさん」

加治
では、スキルを外部化する「技術」の革新を企業の「文脈」とどう寄り添わせるべきでしょうか。

楠木
それこそが経営者やリーダーの仕事です。「われわれの事業はこれで稼ぐ」という明確な意思がない限り、AIを導入しただけで突然強くなることはありません。最初の問いは常に「この商売は何で儲けるのか」であるべきです。

黒川
同感です。今、AIで最も利益を上げているのは、4年前からあるRAG(Retrieval Augmented Generation)という技術です。これは、猟犬のレトリーバーが獲物を取ってくるように、企業内のデータから正しい情報を取ってくる仕組みです。以前は汎用モデルしかありませんでしたが、今は特定の用途に特化した「気の利いたモデル」があり、それを活用しています。

これは半導体の世界と同じです。最先端の2ナノ、3ナノといったプロセスよりも、画像センサー用などのような数百マイクロの枯れたプロセスの方が、実は利幅が大きいのです。最近は欧米のお客さまからもよく「フィジカルAIで本当に儲かるのか」と問われますけれど、日立としては、フィジカルAIでマインドシェアを奪いつつも、実務においては、「こなれた技術」をユーザーに気づかれないように業務に差し込んで利益に貢献させることが重要だと考えています。

楠木
「なぜ儲かるのか」というストーリーの、この部分にAIを使えばコストが下がる、あるいはスピードが上がってさらに儲かる。ユーザーにとって大切なのはそれだけです。ですから「シナジーおじさん」は二流経営者なのですが、「それでだおじさん」は優れた経営者だと思っています。

加治
「それでだおじさん」ですか。

楠木
ええ。「どうやって儲けるのか」を伺ったときに、その会社が何を商売としていて、現状どうなっているか、競合はどうなのかといったことを説明したあとに、「それでだ」と利益構造の説明が出てくる経営者です。この「それでだ」に至るまでのストーリーに奥行きがある経営者なら、AIをどこに組み込めばますます儲かるかということを、因果関係で考えられるはずです。

黒川
日立にも「それでだおじさん」がおります。日立レールで「HMAX*」の原型をつくった、鉄道ビジネスユニットCEOのジュゼッペ・マリノです。彼は世間がまだフィジカルAIと騒いでいない段階で、「まずはドメインナレッジとデータだ。機械学習を使い、走行車両のデータを時速320kmで走りながら自動で取得する。それでだ、データが並んでいるだけでは理解できないので、生成AIを使って人が分かる言葉に置き換える。それでだ、エージェント1個1個つくっても仕事として完結しないからつなぐ必要がある。最終的にはフィジカルAIで自動運転まで持っていく」と先々のストーリーを描いていました。それを聞いて、周囲の電力や製造部門の人たちが「一体何が起きているのか」と加わり始めたのがHMAXの始まりです。超ボトムアップかつトップダウンの動きでした。
* HMAX by Hitachiは、AIで社会インフラを革新する次世代ソリューション群です。

楠木
「それでだおじさん」には論理と文脈の奥行きがあるわけですよね。AIのような基盤技術が登場した時こそ、この奥行きがあるかどうかが勝負を分けます。

人間の「センス」が問われる時代に

加治
楠木先生は「論理の奥行き」やストーリーの重要性に加え、最近は「好き嫌い」ということもおっしゃっています。この「好き嫌い」とAI、文脈を生み出すことの関係についてお聞かせいただけますか。

楠木
「好き嫌い」とは、「良し悪し」とは異なる価値基準のことです。「良し悪し」は、嘘をつかない、時間を守るといった社会的なコンセンサスがある基準です。一方で個人的、組織の局所的な基準が「好き嫌い」です。「天丼とカツ丼、どっちが好きか」に正解はありません。私の専門である競争戦略は、実はこの「好き嫌い」と非常に親和性が高いのです。

戦略の本質は他社との違いをつくることです。そう考えると、戦略的意思決定とは「良いか悪いか」を選ぶことではないと言えます。

加治
どの選択肢も「良いこと」ですものね。

楠木
そうです。客観的な「良し悪し」の基準がある中では全員がよい方を選ぶため、結局は横並びになって違いが消えてしまいます。ということは、事前に「良し悪し」の基準がない中で、どの「良いこと」を選ぶかという決断、これが戦略です。

価値基準が意思決定者の中にしかない状態での選択は、もはや「好き嫌い」と言うほかありません。それは客観的な基準では説明できないことです。だからこそ、戦略として意味があるのです。今、AIにプロンプトを入れれば、もっともらしい戦略オプションはいくらでも出てきます。しかし、「どのオプションが一番儲かるか」と聞いた瞬間に、戦略としての条件を欠いてしまいます。

加治
AIはニュートラルに「正解」を導き出すからですね。必要なのは正解ではない。

楠木
AIでさまざまなスキルが外部化していくこの時代、人間に残されるのは「センス」です。センスとは、複数の「良いこと」の中からどれを選ぶかという判断力です。今後しばらくは「スキルのデフレ」と「センスのインフレ」が続くでしょう。経営者のセンスがますます問われる時代です。そう考えると、どんなにAIが浸透しても、人間の役割は残ると思います。

楠木
AIの供給側は今後も競争を続けるでしょう。ただ、供給側が示すAIの可能性と、それが経済的価値を持つかどうかは別問題です。技術が事業に浸透するのは、常に「切実な需要」がある場所です。日本なら、深刻な人手不足によるインフラ修繕の停滞や高齢化社会といった切実な課題こそがAIをドライブする原動力になるはずで、そこに目を向けることが重要だと思います。

第5回は、5月29日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

加治慶光(かじよしみつ)
株式会社日立製作所 Lumada Innovation Hub Senior Principal。シナモンAI 会長兼チーフ・サステナビリティ・デベロプメント・オフィサー(CSDO)、鎌倉市スマートシティ推進参与。青山学院大学経済学部を卒業後、富士銀行、広告会社を経てケロッグ経営大学院MBAを修了。日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズ、日産自動車、オリンピック・パラリンピック招致委員会などを経て首相官邸国際広報室へ。その後アクセンチュアにてブランディング、イノベーション、働き方改革、SDGs、地方拡張などを担当後、現職。2016年Slush Asia Co-CMOも務め日本のスタートアップムーブメントを盛り上げた。

黒川 亮(くろかわ りょう)
株式会社日立製作所 事業主管 Vice President AI Strategy(取材時、現在はデジタルシステム&サービスセクター Chief Lumada Business Officer兼 AI&ソフトウェアサービスビジネスユニット事業主管)。日本発グローバル企業日立の一員として、日立グループ内外のAI トランスフォーメーション推進、技術計画、ステークホルダ対応担当。
AI&ソフトウェアサービスビジネスユニットにおけるChief Lumada Business Officerとして、Lumada推進を通じたデータ活用を担当。