一橋大学特任教授(PDS寄付講座・シグマクシス寄付講座)楠木建氏
楠木建教授が何より大切だと考えている、平和。それを守り続けるためになくてはならないのが、「不戦教養」だ。人はみな戦争には反対なのに、なぜ戦争が絶えないのか。戦争を繰り返さないために、私たちが日頃から意識しておくべきことは何か。不穏な社会だからこそ、戦争に対する深い教養が価値を持つ。その1では、アイゼンハワーの緊急性と重要性という言葉について考える。

※ 本記事は、2025年10月7日時点で書かれた内容となっています。

僕は基本的に、ほとんどのことは気のせいだという考えで生きてきました。「これは大変なことだ」と思ってもそれは大概気のせい――しかしそんな僕でも、気のせいだと言っていられないことがあります。それは、マクロでは「戦争」、ミクロでは「重篤な病気」と「絶対貧困」です。今の日本では、餓死の危機にあるような絶対貧困に苦しんでいる人はごくわずかだと思います。平和と健康であれば、あとは大体気のせいで済ますことができる。

健康に興味がある方は多いですが、不戦について健康と同じぐらい考えている人は少ないと思います。しかし本来は、戦争とか平和についてそれぞれが自分の価値基準を持ち、それに基づいて生活するべきだし、そのために必要なのが今月のテーマである「不戦教養」です。

戦争の悲惨さを知ることは大切です。しかし、それだけでは「不戦教養」にはなりません。戦争がひどいものだということは、直接的に戦争を経験していない今の日本の大多数の人たちでも分かっています。ガザのニュースやロシアのウクライナ侵攻を見れば、これはひどいものだとほとんどの人は思うでしょう。しかしそれは今に始まった話ではなく、近現代のあらゆる戦争が、「戦争だけは回避しなければいけない」という大声の中で起きている。ほぼ全員が戦争反対の立場を取りながら、ある段階で「もはや戦争しかない」という状況になり、戦争が起きる。20世紀以降の戦争はほとんどすべてこのパターンをたどっています。

戦争の悲惨さを知るだけでなく、戦争が悲惨で悪いことだとわかっているのになぜ戦争になるのか。どういう成り行きで戦争になるのかについて、歴史的な知識を持つことが必要です。なぜ戦争になるのかを一人ひとりが考え、不戦のための自分なりの価値基準を確立すること。そこに「不戦教養」の本領があります。

連合国軍最高司令官からアメリカ大統領になったアイゼンハワーが、演説の時に引用した名言があります。「私は緊急のものと重要なもの、2種類の問題を抱えている。本当に重要なことが緊急であることはほとんどなく、緊急なことが本当に重要なことはほとんどない」。この有名なフレーズは、タスクを緊急度と重要度で整理する生産性改善のフレームワークとして活用されています。“アイゼンハワー・マトリックス”と呼ばれるもので、緊急度と重要度の2軸で4象限を作り、やるべきもの、予定すべきもの、任せるべきもの、削除すべきものにタスクの優先順位を分けるというフレームワークですが、これ自体は薄っぺらい手法にすぎません。

アイゼンハワーは、緊急性と重要性にトレードオフがあると言っているわけですが、それはなぜか。僕の理解はこういうものです。アイゼンハワーはもともと軍事指導者で、後に大統領になっている。こういう国家的責任を背負った意思決定者の立場で考えてみると、その時点で緊急に決定しなければいけないことは、すでに何らかの理由で追い込まれているということです。追い込まれている状況で望ましい結果を導く意思決定をする、それは容易ではないはずです。正しい結果を得られる可能性が、かなり制限されている状態。これがアイゼンハワーの言う「緊急性」だと思います。

もし緊急性がなければ、じっくり考えて、時間的な奥行きを持った複数の意思決定の連鎖を作り出すことが可能になる。良くない状況を抑制して、望ましい状況に持っていくこともできるわけです。つまり緊急なものというのは、そもそも意思決定を間違いやすい問題なので重要ではない。重要なものというのは、意思決定への制限がない状態で取り組むべき問題なので、緊急ではない。これが、アイゼンハワーの言葉の真意なのではないか。

話を戻すと、僕は不戦ほど重要なことは世の中にないと思っています。ところが、戦争が目の前に迫っているとか、もう始まっているという緊急事態の渦中では、どんなに優れた意思決定者であっても強い制約状態に置かれる。そこから事態を大きく改善するのは困難です。今の日本は、緊急性から解放された平和な状況にあります。平和だからこそ物事の本質に手を突っ込んで、教育はもちろん法制度整備やメディアの言論、そういう根本的なところから不戦に向けて手を打つことができる。重要なことは緊急の中では実現できない――だからからこそ、普段から一人ひとりが不戦について考え、行動するということが大切なのです。

第2回は、12月8日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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