加治慶光 (株)日立製作所 Lumada Innovation Hub Senior Principal /茂木健一郎氏 脳科学者/阿部淳 (株)日立製作所 代表執行役 執行役副社長
2025年7月17日、「ともに創る、未来の社会~デジタルをコアに切り拓く、新たな景色~」をテーマに、日立製作所主催のイベント「Hitachi Social Innovation Forum 2025 JAPAN, OSAKA」を開催した。ゲストは、脳科学者茂木健一郎氏。(株)日立製作所 代表執行役 執行役副社長 阿部淳、Lumada Innovation Hub Senior Principal 加治慶光の3名で行われたビジネスセッションのイベント採録を、3回に渡ってお届けする。第1回は、『IKIGAI』をテーマにしたディスカッション。

世界共通語になった『IKIGAI』

加治
モデレーターの日立製作所の加治です。まず私の方から、登壇者をご紹介させていただきます。脳科学者で、最近ではAIと脳のアライメントについて研究をされていて、『IKIGAI』というご著書が世界中で大ベストセラーになっている茂木健一郎さんです。

茂木
よろしくお願いします。

加治
日立のIT領域全体の統括と、制御分野や産業系プロダクトなどの統括も歴任し、IT、OT(制御・運用技術)、プロダクトという幅広い事業全般に関わられてきた日立製作所 代表執行役 執行役副社長の阿部さんです。

阿部
どうぞ、よろしくお願いします。

加治
2017年にイギリスで最初に出版された『IKIGAI』という本は、日本人独特の観念である「生きがい」とは何なのかを、日本人である茂木さんが英語で書かれ、世界中でベストセラーになっています。まず、その背景や思いについてお話をいただけますか。

茂木
『IKIGAI』は、現在29の言語に翻訳され、世界35か国で出版されています。ドイツでは昨年の年間ベストセラー1位になっていまして、38週間1位だったそうです。もちろん日本語にも翻訳されています。この本は、私たち日本人の生きがいという観念を、海外の人に理解してもらうという内容になっています。今のようなグローバル社会では、GDPのような数字が物事の基準になりますし、子どもだって学校の成績が数値化されますね。しかしそういうことではなく、数値では測れない生きる喜びというものが生きがいで、それは世界から見ると非常に重要な日本人の特徴なのです。その日本人の独特な価値観について、2017年に英語で書いたのがこの本で、本当にたくさんの国で読まれています。

加治
阿部さんは、『IKIGAI』を愛読書として会社でも紹介されているそうですが、そのきっかけや、どんなところに共感されたのかを教えてください。

阿部
私がこの本を読ませていただいたのは、数年前になります。まずファンである茂木先生が書かれた本で、最初に英語で書いたもので、しかも生きがいを端的に訳する英語がないと言うことで『IKIGAI』というタイトルになっている。これは一体どういう話なんだろうと思いまして、購入しました。読んでみて印象に残ったのは、例えば、ミシュランで三つ星を取った寿司職人の話です。96歳で現役のこの方は、ミシュランを取ろうとか、何かを達成しようであるとかを考えて働いているのではなく、日常の中で、謙虚に、丁寧に、こだわりを持って、お店に来てくださるお客さまの笑顔を見るためにお寿司を握っている。その繰り返しこそが生きがいなのだという話に、心から共感すると共に、私たちの日々の仕事にも通じるものがあると思いました。

日立は昨日創業の日で、今日から115年目に入ったのですが、「優れた自主技術・製品の開発を通じて社会に貢献する」という企業理念は、これまでずっと継承されていて、技術屋としてのこだわりがまだまだ生きています。モノづくりはもちろん、システム開発などでもやはりこだわりを持って仕事をする人間が多いので、きっと響くものがあると思いまして、新年の挨拶の場であったり、社内SNSであったり、海外に行った時など紹介してきました。

茂木
ありがとうございます。僕は以前日立市に伺ったときに、街をランニングしたことがあります。今でもずいぶん大きな工場がありますが、あの地から始まって、重電から鉄道、最先端のITやAIまで幅広く事業を展開されてきたその根底には、100年以上続くこだわりがあるというのは、すごく納得します。本の中でも書きましたが、こだわりというのは面白いんです。例えばラーメン屋の店主が、究極のラーメンを作りたいと考える。スープの素材から調味料、麺の配合など誰も気づかないようなところにまで徹底的にこだわって、究極の一杯を作るということを、私たち日本人は普通に理解します。しかしこのこだわりは、外国の人からするとありえないことなんです。「1杯1000円もしない食べ物なら、値段相応のものを作ればそれでいいじゃない」、それが世界の主流の考え方です。同じように日立のこだわりも、なかなか海外の人には理解されないものかもしれませんね。

阿部
おっしゃる通りです。しかしそれが、真似のできないジャパンクオリティになることも確かです。これは日立だけではなく、多くの日系企業がそうだと思います。

人口減少と生成AI

加治
ここからはファクトを押さえながら、議論をしていきたいと思います。このスライドは、これからの人口減少の推移を示していますが、2040年にはなんと1,100万人の労働者が足りなくなるという予測が発表されています。この待ったなしの事実に対して、デジタルや生成AIの活用に光が当たっているのは皆さんご存じの通りだと思いますが、そこに生きがいやこだわりがどう関係してくるのか。この辺りを議論していきたいと思います。阿部さん、いかがでしょう。

阿部
私たち日立グループも、生成AIを事業の真ん中に据えて取り組んでいます。しかし、単に人の仕事をAIに置き換えればいいとは考えていません。先ほどのこだわりのような、人間の持つ丁寧さや気づき、そういうところを生かした上で、人とAIがうまくシンクロしながらやっていくことが大切になると思っています。

茂木
AIだけでは駄目だというのは、阿部さんのおっしゃる通りだと思います。僕は、理論的に生きがいのことをいろいろ検討していまして、AIは「こういうアウトプットの場合、これぐらいの点数です」という評価関数によって学習していきます。しかし生きがいというのは、おそらく評価関数とは独立した生きる喜び、働く喜びなんです。

2023年にヴィム・ヴェンダース監督が、『PERFECT DAYS』という映画を作りました。東京の公衆トイレを掃除される方の生活を描いて、役所広司さんがカンヌで主演男優賞を獲りましたが、あれはまさに生きがいの映画だと思います。従来の労働市場では、給料や社会的評価の高い企業で働くことが良い人生であるという価値観が蔓延していました。しかし人手不足のこれからは、それぞれの人がライフステージに合わせて、個性を生かしながら働ける社会を作っていく必要があります。その時鍵になるのが、生きがいだと僕は思っています。

以前にNHKの番組で、宮崎駿さんを取材したことがあります。宮崎さんが絵コンテを描いている時に、「これで興行収入何十億円だ」とか、「これでアカデミー賞だ」なんてことは全く頭にありません。それを考えるのは鈴木敏夫さんで、宮﨑さんはとにかく生きがいを感じてひたすら絵を描いているわけです。それが、世界を感動させる作品のクオリティになる。『スーパーマリオブラザーズ』も『ポケモン』も、同じことが言えるのではないでしょうか。

先ほど阿部さんがおっしゃったジャパンクオリティというのも、実は働いている方が喜びを感じている。そのことによってクオリティも上がるし、その喜びが人に何かの形で共感として伝わるのだと僕は思います。労働力の不足というのは大変重要な問題ですが、例えば外国からいらっしゃる労働者の方々にも、そういう日本の生きがいみたいな価値観を分かっていただけると、喜びを持って活躍してもらえるかもしれません。

人とAIの役割

阿部
少し観点が違うかもしれませんが、私は若い時から上司に相談に行くと、「君が決めろ」と言われてきました。

茂木
いい上司ですね。

阿部
何かを決めることまでを、全部AIに委ねてしまってもいいのか。決めるというのは、やっぱり人間がやるべきところなのではないかと私は思うのですが、茂木先生はどう思われますか。

茂木
脳科学の立場から言うと、いま言われた選択、チョイスというのは自分の価値観が反映されるわけですが、価値観はやっぱり人間のものです。だって皆さん、自分の生涯のパートナー選びをAIに任せるという人はいないでしょう?

阿部
最近はマッチングアプリが頑張っていますが、最後は自分で決めないといけませんね。

茂木
だから、阿部さんの上司の「早く決めろ」というのは、これからの大事なスローガンかもしれません。

ヒューマン・イン・ザ・ループ(HITL)

加治
例えば日立の現場のこだわりというのは、何か特徴的なものがあるのでしょうか。

阿部
日立には、モノを作る工場という現場や、システム構築の現場、事業のフィールドという現場など、さまざまな現場がありますが、すべてに共通しているのはドメインナレッジ(業種に特化した知見や情報)を大切にしているということです。私たちの事業は、社会インフラなどミッションクリティカルなものが多いので、それが止まった場合の影響はきわめて大きくなります。安全というものが何より重要ですから、お客さまの業務をしっかり理解し、運用をしっかり理解するという深い関係性の中で知見を共有することは、事業の生命線です。そんなドメインナレッジへのこだわりこそが私たちの強みであり、お客さまに信頼していただけるポイントだと思っています。

茂木
現場のこだわりがお客さまとの信頼を作り、それが世界に誇る日本の社会インフラのクオリティになっているというのは、素晴らしいですね。最近自動化システムなどにおいて、AIの限界を補完するために人間が判断に介入するヒューマン・イン・ザ・ループという設計思想がありますが、やはりループの中に人間が入るということが重要なんです。

映画にもなっていますが、アポロ13号が事故を起こした時、宇宙飛行士たちが勇気を持って今までにない方法を取ったから、無事地球に戻れた。おそらく人間がヒューマン・イン・ザ・ループで入らないと、ミッションクリティカルなところで何か例外的なことが起こった時、AIだけでは判断できないはずです。阿部さんは、交通や金融系といったインフラシステムの整備をされてきた方なので、なおさら最後は人間の力が必要であることを理解されているのでしょう。

そのためには、顧客との普段のコミュニケーションが欠かせないというのも、おっしゃる通りだと思います。こだわりというと、自分一人で充足しているイメージがあるかもしれませんが、実はコミュニケーションの中でシェアされて、コミュニティの中で共有されていくものです。日立は、そんなジャパンクオリティを生み出すこだわりを、これまで継承されてきたのでしょう。

第2回は、9月22日公開予定です。

茂木 健一郎(Kenichiro Mogi)
脳科学者
ソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー、東京大学大学院客員教授及び特任教授、「屋久島あおぞら高校」校長など、多彩な領域で役職を務める。専門は脳科学、認知科学。「クオリア」をキーワードとして脳と心の関係、あわせて近年は「AIと脳のアライメント」について研究。

阿部 淳(Jun Abe)
(株)日立製作所 代表執行役 執行役副社長 デジタルシステム&サービス事業責任者
1984年入社、DBや運用管理などソフトウェア開発に従事。以降、クラウドサービス、制御プラットフォーム、産業・流通向けシステム、産業系プロダクトなど国内外さまざまな事業統括を歴任。IT、OT、プロダクト事業の全般を率いた経験をもとに、Lumadaを中心とした日立のデジタル事業の拡大を推進

加治 慶光(かじよしみつ)
株式会社日立製作所 Lumada Innovation Hub Senior Principal。シナモンAI 会長兼チーフ・サステナビリティ・デベロプメント・オフィサー(CSDO)、鎌倉市スマートシティ推進参与。青山学院大学経済学部を卒業後、富士銀行、広告会社を経てケロッグ経営大学院MBAを修了。日本コカ・コーラ、タイム・ワーナー、ソニー・ピクチャーズ、日産自動車、オリンピック・パラリンピック招致委員会などを経て首相官邸国際広報室へ。その後アクセンチュアにてブランディング、イノベーション、働き方改革、SDGs、地方拡張などを担当後、現職。2016年Slush Asia Co-CMOも務め日本のスタートアップムーブメントを盛り上げた。