一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)楠木建氏
リクルートワークス研究所の労働需給予測では、2040年の日本は1,100万人の人手不足に陥るという数字が発表されている。私たちが直面せざるをえないこの課題は、経営者にとって厳しい現実をつきつけることになるが、日本にとっては失われた30年から浮上するビッグチャンスになるかもしれない。そんな楠木教授の人手不足の論考を、9月は5回に渡ってお届けする。その3は、人手不足だからこそ享受できる職業選択の自由について。

「第1回:千載一遇のチャンス」はこちら>
「第2回:「失われた30年」ゆえの伸びしろ」はこちら>
「第3回:職業選択の自由」

※ 本記事は、2025年7月1日時点で書かれた内容となっています。

労働市場の流動性が高まるということは、労働市場において働く人たちの選択の自由が広がるということです。社会の高齢化最先端を走っている日本では、誰もが長く働くようになるわけですから、労働市場がきちんと機能していることはとても大切なことだと思います。労働市場が存在する状態というのは、一人ひとりが頭の中に選択肢を持って仕事ができる状態です。転職すればするほどいいとか、労働市場の流動性が高ければ高いほどいいということではありません。労働市場が機能していない社会というのは不健康だということが言いたいのです。

今の若い人に、「知ってる?昔は大学を卒業して、何となく成り行きで入った会社に定年までいるのが当たり前だったんだよ」と言ったら、「それって地獄じゃん」と答えるのではないでしょうか。はじめて社会に出る時には仕事の経験がないわけで、それで自分に合った仕事につけることの方が難しいことは明らかです。その時に選択肢が持てないで、そこで働き続けるしかないような社会は、不健全としか言いようがない。

不健全な職場には、フリーライドで定年まで会社にぶら下がって生きていけばいいや、という不健全な人が出てきます。そういう環境を作ってしまうのは、年齢無用論の時にも触れましたが、働く側よりもマネジメント側に問題がある。一人ひとりとしっかり向き合って評価せず、終身雇用と年功序列で評価する古い仕組みが不健全な組織を作り、一番大切な人を評価する力を弱体化させていく。

会社と社員は、どこまでいっても価値交換の関係にあります。会社は社員に成果を出してもらいたいと期待するし、社員はきっちり成果に対する報酬を要求していく。この緊張関係がないと、結局仕事はうまくいきません。

最近は、新卒の社員が入社数カ月で辞めていってしまう。しかも、代行会社を通して退職する事例が増えているそうですが、僕はそれが憂慮するべき問題だとは思いません。自分自身を振り返ってみても、若者というのは基本的に世の中をなめてかかっています。親に扶養してもらい、学校もお金を払ってお客さんとして教育を受けてきた人間は、自分が自分以外の誰かに対して価値を提供しなければいけない状況なんて、経験したことがないからです。

ところが社会に出ると、必然的に価値交換のシステムに組み込まれますから、成り行きで就職して働いてみると、思い通りにならなくてキツい。これで会社を辞める人というのは、いつの時代にもいるでしょう。昔であれば労働市場がないと思い込んでいるので、余程のことがない限り文句を言いながらも会社生活を続けていたはずですが、僕はこの方が不健康だと思います。静かに退職しようが、大騒ぎして退職しようが、そんなことはよくあることなので仕方がない。

大切なことは、経営者がその会社の仕事のリアリティをきちんと学生に伝えて、過大な期待を与えたりせずに誠実に採用と向き合うこと。そして仕事を通して成果を出してもらえるように、人財にしっかりと投資をしていくというごく当たり前のことを実行する。これに尽きると思います。目標の採用人数といった近視眼的なKPIでの採用は、お互いが不幸になる確率が高い。

仕事についてのニーズというのは、人によって全く違うはずです。どういう仕事がしたいのか、どういう生活がしたいのか、将来どういうふうになりたいのか、それは本当に人それぞれです。みんながみんな経済的な報酬をめざして、しゃかりきになるわけではない。たとえ給料が低くても、自分が楽な仕事を選ぶ人もいるでしょう。家族との生活を大切にしたいので、ストレスなく暮らせる落ち着いた場所でできる仕事がいいという人もいる。

それぞれニーズに合わせて仕事を選択するためには、労働市場が機能していることが前提です。この職業選択の自由という当たり前の意識が広がってきたことはこれからの日本にとってもいいことだと思います。

第4回は、9月22日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

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「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
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