一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)楠木建氏
リクルートワークス研究所の労働需給予測では、2040年の日本は1,100万人の人手不足に陥るという数字が発表されている。私たちが直面せざるをえないこの課題は、経営者にとって厳しい現実をつきつけることになるが、日本にとっては失われた30年から浮上するビッグチャンスになるかもしれない。そんな楠木教授の人手不足への論考を、9月は5回に渡ってお届けする。その1は、労働市場の規律について。

※ 本記事は、2025年7月1日時点で書かれた内容となっています。

少子高齢化が進んだ日本の社会課題として、人手不足が取り沙汰されていますが、僕はこれを大いにポジティブに受け止めています。21世紀の日本がようやく手にしたビッグチャンス、それくらいポジティブにとらえているのです。

人手不足というのは労働市場がタイトになっているということです。当然失業率が下がります。失業している人が少ない社会は安定している。失業率(が低いこと)は古典的な経済政策の目的です。今の日本の完全失業率は2.5%で、これはほぼ完全雇用の状態に近い。2010年の日本の完全失業率は5%以上ありましたから、半分以下になっている。失業率だけで言うと、高度経済成長期なみの低さです。

ヨーロッパでは失業問題が長く続いています。失業率を見てみますと、ドイツは約6.3%で、フランスは約7.4%、少し上向いたとはいえスペインはかなり深刻で10.61%です。北欧のスウェーデンは経済がうまくいっている国だというイメージがありますが、失業率は9.7%もある。中国は統計が独特で確たることは分かりませんが、16歳~24歳の若者の失業率は14.9%という数字が発表されているようです。そんな世界の状況下で、失業率が低いというのは悪いことではない。

ただしこれはごく表層に過ぎません。僕はさらに深層のレベルに、人手不足のポジティブな意味があると思っています。そのひとつは、これまで何度も話してきましたが、日本においても労働市場からの規律がようやく働くようになったということです。僕は、人間の社会は必ず規律が必要だと考えています。なぜかと言えば、人間は弱いから。性善説、性悪説に対して、僕は性弱説こそ真理だと思っていて、良い人も悪い人も必ず楽な方へと流されます。だから人間の社会には、規律が必要なのです.

企業経営には、3つの規律が存在します。まず、製品やサービスの競争市場です。ここでお客さまに選ばれなければ、企業は存在意義を失ってしまうわけで、製品やサービスを磨き続けなければ生き残れない。これが競争の規律です。2つ目は、資本市場における株主からの評価です。上場企業は資本コストを上回る利益を持続できなければ、最悪の場合株主から退場宣告を受けることになる。これが資本市場の規律です。

3番目が、本題の労働市場からの規律です。労働市場がタイトになってきた現在、人手不足で倒産する企業も少なくありません。労働市場に働きたい人はいるのに、なぜ人手不足で倒産することになるのか。それは、その企業に人が働きに来てくれないからです。なぜ人が働きに来てくれないのか。それは働く場として価値がないからです。例えば、賃金が低い。なぜ賃金が低いのか。それは、その企業に高い賃金を支払うだけの稼ぎがないということです。すなわち、労働市場での存在価値が作れない企業は、人手不足に追い込まれていく。これが労働市場の規律です。

人手不足を少子高齢化というマクロの問題にすり替える人がいますが、多くの場合単にその企業に働きに来てくれる人がいない、という局所的な問題のはずです。人手不足の社会では、労働市場から選ばれなければ企業は存続できません。これが経営に対する規律として重要な意味を持つ時代になってきたということです。

これまでだと、仕事というのは会社からいただくもので、会社に居させてもらうとか、お給料をいただくとか、何か企業に従属でもしているかのような労働観や報酬観がありました。しかし実際はそんなことはない。働くということは労働市場での取引です。こちらは能力を提供する、企業はそれに対して対価を払うという普通の経済取引です。カネを払う側も受け取る側も、両方が「ありがとう」というのが本来の経済的な価値交換です。

企業が労働市場で評価されたいと思うなら、賃上げが必要なのは当然です。そのためには、商売できちんと利益を上げて、賃上げできるだけの儲けを出していることが大前提となります。そうでない企業には、人は来ない。僕は、非常に重要な経営規律がようやく労働市場でも効くようになったのだと考えています。

人手不足はピンチではない。日本の経営革新の千載一遇のビッグチャンスです。

第2回は、9月8日公開予定です。

楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座およびシグマクシス寄付講座)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。

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