一橋大学特任教授(PDS寄付講座競争戦略およびシグマクシス寄付講座仕事論)楠木建氏
人間の仕事は、生成AIをはじめとするデジタルテクノロジーに代替されてしまうのか。そんな議論が繰り返される中、改めて人間が持つ潜在能力に注目し、それを引き出そうという提案が「好き嫌いHR(ヒューマンリソース:人的資源)」だ。本テーマの最終回となるその4では、究極のダイバーシティーで人を生かし、企業を成長させる「好き嫌いHR」の全貌がいよいよ明らかになる。

「第1回:「良し悪し」と「好き嫌い」」はこちら>
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「第3回:スキルのデフレ化とセンスの価値」はこちら>
「第4回:スキルHRからセンスHRへ」

※ 本記事は、2025年4月25日時点で書かれた内容となっています。

人が能力を発揮するために、働き方改革はもちろん大切なことなのですが、気になるのはすぐにホワイト企業とブラック企業という区別が出てくることです。これは「良し悪し」を基準にした、良い企業はホワイト、悪い企業はブラックという分類です。でもそれは、きついとかつらいとか、そういう働く側の主観を基準にした分類ですから、実際には個人の「好き嫌い」に大きく依存します。

例えば僕は文章を書くのが大好きなので、「原稿用紙で1,000枚書いてくれない?」と言われても、「え、1,000枚でいいんですか?どうせなら2,000枚書かせてくれませんか?」となるタイプです。ところが人によっては、そんな仕事を振られた瞬間に会社を辞めてしまうかもしれません。仕事がつらいかどうかなんて、その人の「好き嫌い」で変わるのは当然のことです。

それぞれの会社にはカラーが存在します。ブラックとホワイトだけではなく、実際にはお金を儲けることに特化したゴールドの企業もあるでしょうし、ピンクやオレンジやグリーンなどさまざまなカラーの企業があるはず。仕事を探している人は自分の「好き嫌い」に合ったカラーの企業を選べばいい。企業側も、多様性の最強の源泉は一人ひとりの「好き嫌い」ですから、おのずと多様性を高めることができます。

究極の人的資本経営というのは、個人が「好き嫌い」をはっきりと表に出す。マネジメントはそれを理解し、くみ取る。その結果、一人ひとりが自分の好きな仕事を「頑張る」ではなく「凝る(こる)」という状態で取り組めるようになり、生産性が高まる。これが僕は一番いいアプローチだと思います。

例えば最近「静かな退職」が問題になっています。すぐに若者が辞めてしまい、辞める時も退職代行業者を使ったりしてリテンションが利かない。これも給料の問題ではなくて、その人が本当は何が好きで何が嫌いかを企業が分かっていないからではないでしょうか。

任天堂の元社長で若くしてお亡くなりになった岩田聡さんは、面接を人一倍される方で、そこで必ず聞くことが2つあったそうです。1つは、「なんでこの会社入ったのか」。2つ目は、「今までやってきたことの中で、一番面白かったこと、一番つらかったことは何?」。僕はこういうコミュニケーションが「好き嫌いHR」の原点だと思います。

「トランプ関税についてあなたの意見は?」と聞かれると、何かかしこまって話しにくいですが、「今までやってきた仕事の中で一番面白かったことって何?」と聞かれれば、いくらでも話せる。そこでいろいろな「好き嫌い」が出てくるはずです。大切なのは、具体のレベルで出てきた「好き嫌い」をより抽象化して、その人の「好き嫌い」のツボを見つけることです。

例えば僕の場合、子どもの頃から音楽が好きでスポーツが嫌いです。具体的なレベルではその通りなのですが、ではなぜそうなのかを探っていくと抽象化されたツボが見えてきます。僕は、誰かが勝つと誰かが負けるというゼロサムゲームが苦手なんです。しかもその勝ち負けが、スポーツのようにルールで決められているものが好きではない。

音楽がなぜいいかというと、ゼロサムゲームではないからです。昔はビートルズとローリング・ストーンズ、どっちが好き?という話題によくなりましたが、それぞれが好きなものを聞いて気持ちよくなればそれでいい。これはなぜ音楽が好きでスポーツが嫌いなのかという具体的なレベルを、一段抽象化したところで見えてくる僕の「好き嫌い」のツボです。これを一人ひとり理解しておくことが、「好き嫌いHR」の最重要ポイントです。

根本的な問題は、現在のHRの言語・文法が全てスキルで出来上がっているという点にあります。インセンティブとかスキルとか「良し悪し」しかカバーできない今のHRでは、ただでさえ劣後しがちなセンスや「好き嫌い」を生かすことはできません。例えば法人営業というくくりでは、その人の「好き嫌い」やセンスまで把握することは到底できないし、それは他の仕事でも全く同じです。

「好き嫌いHR」は、スキルからセンスへ、「良し悪し」から「好き嫌い」へと言語・文法を変えていく提案です。採用、配属、キャリア開発、人的資本投資、あらゆるHRの判断を、一人ひとりの「好き嫌い」をベースに行う。まず具体的なレベルで個人の「好き嫌い」について時間をかけて話し合い、それを抽象レベルに引き上げてその人の「好き嫌い」のツボを把握する。それに基づいて、具体的な配属やキャリア開発などを判断する。この具体と抽象の往復運動を一人ひとりにやっていくのが「好き嫌いHR」です。

個人の「好き嫌い」に関する情報やツボは、タグを付けてAIに覚えさせておく。社内でこういう人財が欲しいという需要があった時には、そのためのアルゴリズムでマッチングする。そんなAIの使い方がありうると思います。さらに普段の面談での情報もどんどんAIに食わせていけば、アルゴリズムの精度が上がっていき、やがて最適なアサインメントや配属、キャリア開発に生かせるようになる。自分の「好き嫌い」について腹を割って話し、それを基準にその人に合った配属を決めてもらえる企業であれば、必ず離職率も下がるはずです。一石で何鳥にもなる、これこそAIが本領を発揮できるところだと思います。

ですから僕はこの機会に、AIを使った「好き嫌いHR」テック、SaaSでもコンサルティングでもいいので、誰かに実用化して欲しいと願っています。

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楠木建(くすのきけん)
経営学者。一橋大学特任教授(PDS寄付講座競争戦略およびシグマクシス寄付講座仕事論)。専攻は競争戦略。企業が持続的な競争優位を構築する論理について研究している。著書として『楠木建の頭の中 戦略と経営についての論考』(2024年、日本経済新聞出版)、『絶対悲観主義』(2022、講談社)、『逆・タイムマシン経営論』(2020、日経BP、杉浦泰との共著)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010、東洋経済新報社)などがある。