テックビジネスの震源地であり続ける、アメリカのシリコンバレー。そもそも、同地はどのようにして技術の集積地となり、起業の聖地となったのか。1999年以降、同地でコンサルタント・文筆家として活躍している海部美知(かいふ・みち)氏に、シリコンバレーの歴史について寄稿してもらった。前編では、カリフォルニア草創期から、スタンフォード大学の創設、半導体産業の勃興、ベンチャーキャピタルの登場までをたどる。

「前編:技術とVC資金が回すエコシステム誕生」
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「投資立国」とカリフォルニア草創期

カリフォルニア州北部、サンフランシスコからサンノゼまでの湾に沿った地域をシリコンバレーと呼ぶ。本来はサンフランシスコとすぐ南隣の郊外地域は含まないが、最近では含めることもある。高速道路を車で1時間半ほどの距離の間に、ITやバイオなどの企業が点在する「テクノロジーの都」であり、また新しい企業が数多く生まれる「ベンチャーの都」でもある。

本稿でシリコンバレーが現在の姿に至る歴史を振り返ることで、シリコンバレーの文化や仕組みの理解につなげていきたい。

図 シリコンバレーの地図

(出典)Junge-Gruender.de による地図をもとに地名を日本語化(CC BY 4.0

アメリカは、もともと「投資」で作られた国である。17世紀以降、欧州の投資家がお金を出し、人を送り込み、金銀採掘や商品作物農業といったビジネスを開発することで国が始まった。1776年の東部13州独立以後の西に向けての開拓も、その本質は「土地開発投資」であった。

一方、西海岸のカリフォルニアと欧州人の関わりは、これとは異なる形で始まった。アステカ帝国を征服し、メキシコの西海岸までたどり着いたスペイン人が南からやってきたのだ。1768年から、キリスト教伝導と先住民の征服をセットで行う「ミッション」を展開、北に向かって数珠繋ぎに教会と街を作っていった。現在も、カリフォルニアの多くの都市が、「サンノゼ=聖ヨゼフ」のようなキリスト教聖人のスペイン語読みであるのはこのためだ。

1848年、米墨戦争でカリフォルニアはアメリカに編入された。同じ年に、現在のサクラメント市北東で金が発見され、人口が増加し始める。「ゴールドラッシュ」である。

翌々年の1850年、カリフォルニアは州に昇格し、奴隷州でなく自由州となることを選択した。「奴隷の保有を許せば、一部の金持ちだけが有利になる」というのが理由だ。一攫千金指向の金儲け主義でありながら個人の自由や機会平等を重視する、現在まで生き続けるシリコンバレー精神である。

さて、アメリカ合衆国の領土が大陸西端まで届き、この地にもアメリカ流投資活動「鉄道ブーム」の波が押し寄せる。1869年には大陸横断鉄道が完成した。鉄道を企画した「西」グループの中心人物は、サクラメントの商人、レランド・スタンフォードであった。鉄道投資で大成功した後、カリフォルニア州知事や連邦上院議員となって権勢をふるった。

しかし家族には恵まれず、一人息子は若くして亡くなった。この息子を偲び、1885年、パロアルトという街の郊外に息子の名をつけた大学を設立した。これがスタンフォード大学(正式名称:Leland Stanford Junior University)である。

現在のスタンフォード大学(写真:David Madison / getty images)

軍需産業と半導体の時代

1930年代にはいると戦争の足音が聞こえるようになる。1931年満州事変が発生、対日本の備えとして太平洋にすぐ出撃できる基地が必要になった。このため、海軍はサンフランシスコ湾に面した広大な敷地に空母の航空基地を作った。

この基地は創設者の名をとってモフェット・エア・フィールドと名付けられ、1939年にはエイムス航空研究所がここに置かれた。同研究所はインターネット草創期に重要な役割を果たし、現在はその敷地の一部を借りてグーグルの社屋が建っている。この基地を発祥とする軍需産業は、シリコンバレー初期の主要産業となった。

同じ頃、スタンフォード大学教授フレデリック・ターマンは、教え子のウィリアム・ヒューレットとデイヴィッド・パッカードに起業を勧めた。当時、地元に就職先がなかったためである。彼らはパロアルトの家のガレージでオーディオ発振器を発明し、ヒューレット・パッカード(HP)が誕生した。これをもって「シリコンバレーの誕生」と呼ぶことも多い。

第二次世界大戦後ターマンは、当時、東部の大学に比べて地位が低かったスタンフォードをトップクラスにするため、20年計画で大学改革に着手。1953年、その資金のために、スタンフォードの広大な敷地の一部をスタンフォード・インダストリアル・パーク(現スタンフォード・リサーチ・パーク)として貸し出し始めた。

朝鮮戦争から冷戦にかけて、スタンフォード大学は軍の重要な研究パートナーとなり、インダストリアル・パークには軍需を中心にテクノロジー企業が入居した。その後スタンフォードは全米大学ランキングを駆け上がり、卒業生が創設した企業が数多く育つ。そしてターマンは、「シリコンバレーの父」として知られるようになった。

もうひとり「シリコンバレーの父」と呼ばれる人物がいる。シリコン、すなわち半導体産業をこの地にもたらした、ウィリアム・ショックレーである。ショックレーはパロアルトで育ち、東海岸のベル研究所(ベル研)に勤め、他の研究者とともに、真空管に代わる固体(半導体)、トランジスタの発明でノーベル物理学賞を受賞した。

ウィリアム・ショックレー(1910-1989)(写真:Universal History Archive / getty images)

彼は社内トラブルの末にベル研を辞めて故郷に戻り、1955年、スタンフォードの隣にショックレー半導体研究所を設立して、自力で半導体の開発・製造に乗り出す。

会社設立からわずか2年後、部下8人が辞めてフェアチャイルド・セミコンダクターを設立、さらにそのうちの2人、ロバート・ノイスとゴードン・ムーアが1968年にインテルを創業して独立した。こうして1950〜60年代のシリコンバレーは「半導体の時代」を迎えた。

コンピューターとベンチャーキャピタルの登場

当初は主に軍事用であった半導体はその後、価格の下落と性能の向上により、民生用にも使われるようになった。シアトルでは1975年にマイクロソフト、シリコンバレーでは1976年にアップルが創業、1970年代は「コンピューターの時代」となる。マイクロソフトの創業は、その後の「ハードウェア」から「ソフトウェア」への覇権交代を象徴するものだった。

この時期、シリコンバレーを資金面で支えた大きな時代の変革があった。「ベンチャーキャピタル(VC)」の登場である。

歴史上、投資の出し手は、国王、貴族・地主、富裕な商人、成功した事業家など、「富裕な個人およびファミリー」であった。ところが1950年代に、法規制の変化をきっかけに、東部では「プライベート・エクイティ(PE)」が登場、その中で新しい小さな会社に投資するVCの活動も行うようになる。シリコンバレー企業に対するVCの投資も始まり、フェアチャイルド創設時にはニューヨークのVCが投資、これがシリコンバレーにおける最初の「VC支援創業」とされる。

1960年代には、シリコンバレーの地元でもVCが設立されはじめ、70年代には、KPCB(現クライナー・パーキンス)とセコイア・キャピタルという、現在でも有力なVCが登場した。それまで「東部の富」に依存する部分が大きかったが、資金面でシリコンバレーの自立性が高まり、この後、テクノロジーとVC資金が両輪でシリコンバレーを動かすようになる。

一方、60〜70年代のサンフランシスコ周辺では、カウンターカルチャーやヒッピーのムーブメントが巻き起こった。スティーブ・ジョブスのようなテック坊やたちと、前衛芸術が渾然一体となっていた。この頃の、アンチ・エスタブリッシュメントでユートピア的な理想主義の風潮は、その後も長く受け継がれた。

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海部美知(かいふ・みち)
ENOTECH Consulting代表。米国と日本の新技術に関する戦略分析、事業開発支援、投資・提携斡旋、市場調査などを手がける。シリコンバレー在住。本田技研工業を経て1989年NTT入社、米国の現地法人で事業開発を担当。96年米ベンチャー企業のネクストウエーブで携帯電話事業の立ち上げに携わる。99年ENOTECH Consultingを設立してコンサルティング業務を開始し現在に至る。テクマトリックス株式会社社外取締役。成蹊大学客員教授。北カリフォルニア・ジャパン・ソサエティ理事。一橋大学社会学部卒業、スタンフォード大学MBA取得。著書に『ビッグデータの覇者たち』(講談社現代新書)、『パラダイス鎖国』(アスキー新書)、『シリコンバレーの金儲け』(講談社+α新書、2020年)など。