一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
今月は身辺雑記的な題材から、楠木教授ならではの年をとることの喜びについて学ぶ。第5回は、還暦というタイミングで糖尿病になったことの意味を考える。

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「第5回:針仕事」

※ 本記事は、2024年7月4日時点で書かれた内容となっています。

ジムから家に帰る途中に、生のオレンジを搾るジュースの自動販売機があります。最近見かけるようになってきたのでご存知の方も多いと思いますが、自動販売機の中に本物の果実のオレンジが備蓄されていて、お金を入れるとオレンジが1個ごろごろと転がってきて、機械がぎゅーっと搾る。これを4回繰り返して、オレンジ4個ぶんの搾りたてジュースがカップに入って出てくる。

前回お話した通り、僕は糖尿病になってから人工的な甘いものは一切取らないようにしていますが、果物は別と考えて、1杯400円と少々高い生搾りオレンジジュースをジム帰りに飲んでいます。これをはじめて飲んだ時、こんなにおいしいものがあったのかと思いました。

喉越しがものすごく柔らかい。酸味の中の甘みが穏やかでしみじみとおいしい。これは搾りたてのオレンジジュースの味だけでなく、食生活を改善したことで自分の味覚が変わったのだと思います。糖尿病にならなかったら、こんな経験はできなかった。ありがたいことです。

日々の糖尿病との付き合い方もだいぶ慣れてきました。毎朝起きるとまず麦茶を1杯飲んで、そのあとすぐに「針仕事」に取りかかります。針仕事というのは、インスリンの注射を打つことです。膵臓の機能が壊れてしまって、糖を分解するインスリンが出なくなるのが糖尿病ですから、糖の分解をうながすためにはインスリンを注射で人為的に体に注入する必要があります。

自分のお腹に注射器でインスリンを打つのですが、それだけ聞くと怖いとか面倒くさいと思いがちです。しかし最近の注射器はものすごくよくできている。針を刺しても全然痛くありません。決まった量を注入するのも簡単な構造になっていて、1回ですぐに慣れました。

針仕事はもうひとつあります。血糖値の測定です。自分の指先にインスリンとは別の専用の注射針を刺して、ごく少量の血を出します。これを測定器のセンサーに吸収させると数秒で血糖値が表示されます。糖尿病は健康保険を使った治療なので、測定した血糖値は自己管理ノートに記録して病院に提出しなければなりません。

これも面倒に思えるかもしれませんが、全く苦にならない。むしろ朝起きてすぐの楽しみになっています。なぜ楽しみなのかと言いますと、データの推移が面白い。測定する前に、昨日の食事や行動から今日の数値を自分なりに予想するのですが、これが見事にはずれる。人間の体は本当に不思議で、「なんで今日はこんなに高いの?」とか、「昨日は焼肉を食べたのに、こんなに低いわけ?」とか意外なことの連続で、これがクセになる。毎朝の針仕事は、今では楽しみになっています。

糖尿生活の新しい行動として、時間に余裕がある時にはなるべく歩くということを心がけています。ジムの行き帰りやジムでのウォーキングだけではなく、移動はできるだけ歩く。例えば大学病院のあるお茶の水から日比谷くらいの距離であれば、時間がある時には迷わず歩きます。そうすると、クルマや電車で移動していた時には気づかなかったいろいろな発見がある。

お茶の水の駿河台の坂を下ると、両側に楽器屋さんが並んでいてウィンドウを眺めているだけで楽しくなります。皇居前の内堀通りと外堀通りの間にある広い公園にはじめて入った時には、その空間のあまりの気持ちよさに驚かされました。それまでクルマでは頻繁に通っていたのですが、中に入ったことはありませんでした。

今の僕は、糖尿病の克服が私生活のテーマになっています。振り返ってみると、この年齢になるまで、明確な目的を達成するための継続的な努力をほとんどしたことがありませんでした。それだけダメな人だったということなのですが、還暦を迎えて遅ればせながら何かに向けて努力を続けるという経験をしています。

糖尿病になったことは、ツイていないどころか人生最大の幸運です。ナイスです。ナイスすぎると言っても過言ではありません。

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楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

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この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

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「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
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