一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授 楠木建氏
還暦を迎えた楠木教授が直面した出来事。還暦という節目から見えた、新しい世界。今月は身辺雑記的な題材から、楠木教授ならではの年をとることの喜びについて学ぶ。第1回は、初老の入口ではじめて知った、新しい眼鏡の存在。

「第1回:初老初心者」
「第2回:ナイスか?」はこちら>
「第3回:還暦カーニバル」はこちら>
「第4回:糖尿の光明」はこちら>
「第5回:針仕事」はこちら>

※ 本記事は、2024年7月4日時点で書かれた内容となっています。

考えてみれば今まで歳をとったことがありませんでした。高齢者になるということは、誰もがはじめて経験することです。自分が初老初心者なのだということを最近になって自覚するようになりました。日常生活に直接関わることなのに、老いに関する基本的な知識や経験の不足に気づかずこれまできてしまった、そのひとつが老眼です。

多くの人は50歳頃から細かい文字が読みにくくなり、徐々に老眼が進行していきます。例えばスマートフォンの画面の文字が読みにくくなるので、フォントを大きくしたりして対応します。僕もそうしているのですが、うちの娘にその画面を見せると、「文字でかっ」と言われます。

スマートフォンぐらいならまだいいのですが、僕はパソコンの画面に向かって仕事をする時間が長いので、モニターが見にくいと仕事に支障をきたします。これまで仕事場でも家でも持ち運びできるラップトップのパソコンで仕事をしてきましたが、さすがにこれでは画面が小さすぎるので、コロナの緊急事態宣言の時にデスクトップパソコンに切り替えました。これでもかというぐらい大きな画面にしたところ、とても仕事がしやすくなりました。

しかし大画面にも慣れてくると、やはりまだ見にくいなと感じるようになりました。そこで、眼鏡のレンズを替えようと近くの眼鏡屋さんで視力測定をしました。僕は学生時代から強度の近眼で、眼鏡がないと生活ができません。年齢と共に近眼が徐々に進行し、そこに老眼も重なって最近の見にくい状態が起きていると勝手に思っていたのですが、視力測定の結果は意外なものでした。近眼が改善されていました。

老眼でオフセットされたのかもしれません。近眼自体が改善したことで、これまで使っていた眼鏡では度数が強過ぎた。スマートフォンも、デスクトップの大きな画面も、度の強い眼鏡をかけていたのでは見えにくいのも当然です。近眼というのは悪くなる一方で、改善するという発想がなかった僕には意外な結果でした。

それで度数を若干下げたレンズに交換してもらったのですが、その眼鏡屋さんから「近眼鏡(ちかめがね)はどうしますか」と言われたんです。僕は、はじめて耳にする言葉なので、「えっ、近眼鏡ってなんですか」と聞き返しました。クルマを運転したり外に出て遠くを見る眼鏡とは別に、近くを見るための近眼鏡というものがある。つまり近眼を矯正して遠くを見えるようにする眼鏡の度数では近くを見るのがつらいので、近くを見る用に意図的に度数を抑制した眼鏡を作って使い分ける。それが近眼鏡で、世の初老の人々は日常生活で普通にそうしていると言われました。

そんな眼鏡の使い分けがあるということを考えたこともありませんでした。これまで、仕事の種類によってコンタクトレンズの方が楽な場合にはコンタクトにし、細かいものを見る時にはそこに老眼鏡をかけることで対応していました。しかし、それは近眼鏡があれば、遠眼鏡(普段の眼鏡)とかけ替えるだけで済む話です。早速いつも使っている眼鏡と同じフレームを購入して、近眼鏡を作ってもらいました。すると、読書や仕事が驚くほど楽になったんです。同じフレームで色も黒で同じなのですが、見分けがつくように近眼鏡はつや消しの黒を選びました。

なんでもっと早く気づかなかったのかと激しく後悔しまして、そのことをママに言うと、「えっ、そんなことも知らなかったの」と逆に驚かれました。彼女は何年も前から近眼鏡を併用していて、家にいる時にかけているのは基本的に近眼鏡で、遠眼鏡は運転する時くらいしかかけない。もちろん彼女が2種類の眼鏡を使っているのは気づいていたのですが、単純にその日の気分で変えているだけだと思い込んでいました。

一番身近な人が日常的にやっていることなのに、気づかない。これが初老初心者の世界です。老人世界は広くて深い。まだまだ知らないことがいっぱいあるなと思いました。ジッサイに還暦を迎えた初老初心者には思いもよらない出来事が次々と起こります。これについてはまた来週。(第2回へつづく

「第2回:ナイスか?」はこちら>

楠木 建
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。