軽井沢の森の中、書店やインターナショナルスクール、カフェやコ・ワーキングスペースなどが点在する複合施設『軽井沢コモングラウンズ』で取材した、休暇の読書にお薦めの本を楠木教授に紹介していただく夏休み企画。第2回は、過去と現在をつなぐ訂正という力の重要性を知るための2冊、『訂正する力』『不思議な宮さま』。

「第1回:『限りある時間の使い方』『簡素な生き方」はこちら>
「第2回:『訂正する力』『不思議な宮さま』」
「第3回:『方丈記』『資本主義の中心で、資本主義を変える』」はこちら>
「第4回:『引越貧乏』『宿六・色川武大』」はこちら>

※ 本記事は、2024年6月10日時点で書かれた内容となっています。

次に紹介する本は、東浩紀(あずまひろき)の『訂正する力』です。2024年のベストセラーなので、お読みになった方も多いと思います。タイトルにある「訂正」は、単に間違いを認めたり反省することではなく、過去を再解釈して現在に生き返らせるという柔軟な思考様式を意味しています。現実社会で物事を前に進めるためには、「訂正する力」が非常に有効であるというのが著者の主張です。哲学を論じていながら、とても実践的な内容になっています。

『訂正する力』 東浩紀著 朝日新書

訂正とは逆の考え方が「リセット」です。経済的に停滞している今の日本はリセット願望が強い。しかし、人の世はそう簡単にリセットできません。できないから停滞が続くわけです。これまでの蓄積を安易に否定するのではなく、過去から変化の種を摘み取ってきて現在に生かす。それが成熟した国や社会の在り方だと東さんはおっしゃっています。

老いを例に考えてみますと、老いをリセットするというのは、もう一度若くなるということです。これは非現実的な妄想に過ぎません。それよりも、老いというのは若い頃の過ちを訂正し続けること。今の年齢になってわかる幼い自分を正していくこと。自分を書き替えて変化することが老いだと考えれば、それを肯定的にとらえることができます。

そもそも今の日本の問題の根元には、訂正を嫌う態度があります。政治家は謝らないし、官僚は間違いを認めない。野党はかたくなに教条的な主張を繰り返す。どれも変えないことに価値や評価を求めています。しかし自分を変える気が全くない人と、議論なんてできるわけがない。つまり建設的議論の重要な前提として、訂正可能性があるということです。

自然科学では、新しい研究によって反証された知はそこで無用になります。つまり、反証可能性という概念が自然科学の基盤にあります。自然科学では、最新の教科書が一番正しい。一方で人文学の知は本質的に歴史知です。あの出来事は実はこうだったという再解釈、訂正可能性が新しい知を生み出していく。

その力を最高度に発揮したのが明治維新です。明治維新は、リセットではないし、復古でもない。近代化を成し遂げて植民地化を回避したいのだけれど、そのままでは保守派の反発で物事が前に進まない。その時に「天皇の時代への回帰」というフィクションを導入して、現在と過去をつなぐ。明治の国づくりはヨーロッパの模倣ではなく、古代の日本を取り戻すことだという幻想を作り上げることで、攘夷(じょうい)だった人たちを開国に向けることができた。これこそ訂正する力全開の事例です。

リセット願望が強い人は、トップダウンによる派手な改革を期待しますが、そこからは何もはじまりません。何かを変えるには、一人ひとりがそれぞれの現場で現状を少しずつ変えていくしかない。そういう時こそ、哲学が必要になる。「考えないで成功するための方法ばかり求める国は、破滅する」と東さんは言っていますが、全くその通りだと思います。

『不思議な宮さま 東久邇宮稔彦王の昭和史』 浅見雅男著 文春文庫

国を破滅させる思考・行動様式の典型を浅見雅男の『不思議な宮さま』に見ることができます。サブタイトルにあるように「東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)の昭和史」について書かれた本ですが、これを「訂正する力」という視点で読んでいくと、また違った味わいが出てきます。

東久邇宮稔彦王は、敗戦直後に皇族として唯一総理大臣に就任した人物です。「宮さま」とは平民が皇族を敬愛した呼び方です。現代ではその存在自体が不思議なのですが、それにしてもこの人の不思議さは度を超しています。

皇族の中でも自分の王家を持っているほどの人ですから、生活の豊かさがけた外れです。当時の皇族の男子は無条件に軍人となります。稔彦王はパリのフランス陸軍大学に留学します。政府はエッフェル塔の近くにものすごい豪華なアパートを用意し、留学生活の経費は年額20万円。現在で換算すると十数億円の予算でした。

フランス陸大への留学を終えてからもパリでの生活を続け、大正天皇の崩御の時でも稔彦王は帰国せずに7年間フランスに留まります。とにかくやることなすことが全部その場の思い付き。あらゆることに判断が甘い。ところが「リセット」は上手。とんでもない失態を引き起こしてもすぐに気持ちや考えを切り替えられる。このことがその後の日本に、深刻な事態を招くことになります。

稔彦王は、形式上は軍の高官の地位にあるので、政治利用しようとする怪しい取り巻きが次から次に出てきます。例えばあの二・二六事件で暗躍した真崎甚三郎中将。稔彦王はこの人に乗せられ、いろいろと勝手に利用されたあげくに、事がうまくいかなくなると逃げられる。昭和16年には近衛文麿(このえふみまろ)の後任として総理大臣就任の話が出てきます。当時の難局を打開するためには皇族内閣しかないということになり、東條英機もこのときに稔彦王を推薦しています。お調子者の当人はもちろんやる気満々。ところが、ギリギリのところで内大臣だった木戸幸一が反対し、大命は東條英機に下ります。

防衛総司令官というポストで迎えた宣戦布告の日も、9時から1時間は自分の家にある馬場で乗馬をして、10時半からゴルフの練習。11時半の宣戦の御詔勅の放送を聞き終わったあと、午後2時からまたゴルフの練習をしている、底抜けにのんきな人です。

ついに敗戦となって敗戦処理内閣の首相になるわけですが、訂正する力のないこの人の器量では、当然ですがもう立ちどころに指導力のなさを露呈します。彼の有名なフレーズは「一億総懺悔」――自分の責任を国民に押し付けるのかと評判を落とし、皇族内閣はすぐに倒れます。

東久邇宮稔彦王は東さんの言う「考えないで成功するための方法ばかり考えていた人」でした。不思議な宮さまは日本の破滅の一断面です。(第3回へつづく

「第3回:『方丈記』『資本主義の中心で、資本主義を変える』」はこちら>

(撮影協力:軽井沢コモングラウンズ 軽井沢書店 中軽井沢店)

『楠木建のEFOビジネスレビュー』特設コーナーのお知らせ

取材にご協力いただいた軽井沢コモングラウンズ 軽井沢書店 中軽井沢店に、今回の記事でお薦めしている書籍や楠木教授の書籍を取り揃えた特設コーナーを設置していただきました。軽井沢にお出かけの際には、ぜひお立ち寄りください。
(コーナー設置期間:~2024年9月1日まで)

Karuizawa Commongrounds
〒389-0111
長野県北佐久郡軽井沢町長倉 鳥井原1690-1
お問い合わせ:0267-46-8590

楠木 建(くすのき けん)
一橋ビジネススクールPDS寄付講座特任教授。専攻は競争戦略。一橋大学大学院商学研究科修士課程修了。一橋大学商学部専任講師、同助教授、ボッコーニ大学経営大学院(イタリア・ミラノ)客員教授、一橋大学大学院国際企業戦略研究科助教授、同ビジネススクール教授を経て2023年から現職。有名企業の経営諮問委員や社外取締役、ポーター賞運営委員(現任)などを歴任。1964年東京都目黒区生まれ。

著書に『絶対悲観主義』(2022年,講談社+α新書)、『逆・タイムマシン経営論』(2020年,日経BP,共著)、『「仕事ができる」とはどういうことか?』(2019年,宝島社,共著)、『室内生活:スローで過剰な読書論』(2019年,晶文社)、『すべては「好き嫌い」から始まる:仕事を自由にする思考法』(2019年,文藝春秋)、『経営センスの論理』(2013年,新潮新書)、『ストーリーとしての競争戦略:優れた戦略の条件』(2010年,東洋経済新報社)ほか多数。

楠木特任教授からのお知らせ

思うところありまして、僕の考えや意見を読者の方々に直接お伝えするクローズドな場、「楠木建の頭の中」を開設いたしました。仕事や生活の中で経験したこと・見聞きしたことから考えたことごとを配信し、読者の方々ともやり取りするコミュニティです。
この10年ほどX(旧・Twitter)を使ってきて、以下の3点について不便を感じていました。

・140字しか書けない
・オープンな場なので、仕事や生活経験の具体的な中身については書きにくい
・考えごとや主張をツイートすると、不特定多数の人から筋違いの攻撃を受ける

「楠木建の頭の中」は僕のXの拡張版というか裏バージョンです。もう少し長く書ける「拡張版」があれば1の問題は解決しますし、クローズドな場に限定すれば2と3の不都合を気にせずに話ができます。加えて、この場であればお読みいただく方々に質問やコメントをいただき、やりとりするのも容易になります。
不定期ですが、メンバーの方々と直接話をする機会も持ちたいと思います。
ビジネスや経営に限らず、人間の世の中について考えることに興味関心をお持ちの方々のご参加をお待ちしております。DMM社のプラットフォーム(月額500円)を使っています。

お申し込みはこちらまで
https://lounge.dmm.com/detail/2069/

ご参加をお待ちしております。