臨済宗の修行法は「看話禅(かんなぜん)」あるいは「公案禅」と呼ばれます。歴代の優れた禅僧の言動などをもとにした「公案」を師から与えられ、その公案に向かって修行し、見解(けんげ)と呼ばれる何らかの答えを見出し、その見解をもって師と問答しながら最終的には悟りと呼ばれる境涯をめざすのです。
公案はテストのように正解がある問題とは異なり、知識や理屈、常識、経験に照らして解くものではありません。
人は誰しも幼いうちはむくな心を持っていますが、年を重ねるにつれ、世間の常識、思考の癖、思い込みといったものにとらわれるようになっていきます。それらはお釈迦様の教えを素直に受け入れることを阻むため、とらわれた心を打ち破り、己が生まれながらに仏性を持つことを気づかせるために、公案が用いられます。
私も修行道場では師匠からさまざまな公案を与えられました。その中に、臨済宗の大本山の一つである妙心寺の開山、関山慧玄(かんざんえげん)禅師の次のような逸話があります。

関山禅師の暮らしぶりは大変質素で、居室は雨の日には雨漏りがするほどでした。その日も天井から雨が落ちてきたため、禅師は弟子たちに「何か雨を受けるものを持ってきなさい」と命じました。すると、一人の雲水は手近にあった笊(ざる)をサッと差し出し、もう一人の雲水は桶を探して持ってきました。禅師が褒めたのは笊を出した雲水のほうで、あとから桶を持ってきた雲水は役立たずと叱られました。

皆さんはこの話をどんなふうに受け取りますか。
常識的に考えれば、雨漏りには笊よりも桶のほうが役に立つはずです。しかし、禅で重んじるのは常識ではありません。考えを巡らすことよりも、その瞬間、無心に「感じる」ことを尊びます。だからこの雲水のとっさの行動が褒められた。ただし、それはあくまでこのとき限り。別のときにまねをして笊を差し出しても叱られるだけでしょう。
この話はまた、次のようにも解釈できるかもしれません。雨漏りのような、今まさに困った状況に直面している人にとっては、よい答えを探すために待たされるより、多少足りない答えでもすぐに出されたほうがありがたいのだ、と。

私の師匠は時間に厳しい方でした。「命」というものは目に見えないが、「時間」に置き換えることができる。だから時間を無駄にすることは命を無駄にすることだ。「例えば待ち合わせに10分遅れたということは、相手の命を10分無駄にしたことになるのだ」とよく言われたものです。
命も、時間も、私たちに等しく与えられていますが、命に限りがある以上、時間にも限りがあります。限りある時間を大切に活かすことは、命を大切にすることなのです。目の前で困っている相手を待たせずに解決策を示すことは、相手の時間を、命を大切にしていると考えることもできるでしょう。

そのような時間の大切さを説く禅語が「生死事大、光陰可惜、無常迅速、時不待人(しょうじじだい、こういんおしむべし、むじょうじんそく、ときひとをまたず)」です。
人にとって大切なことはどう生き、どう死を迎えるかである。時間を惜しまなくてはならない。この世は無常であり、あっという間に過ぎ去っていく。時は人を待ってはくれない。そのような意味です。

この言葉は、禅寺で時を知らせるために打ち鳴らす「木板(もっぱん)」と呼ばれる板によく書かれています。板を打つたびに、その音を聞くたびに、修行においては一瞬たりとも無駄にする時間はない、「いま、ここ」を大切にしなければならないと己を戒めるのです。

あらゆる変化のスピードが増している今日、昔と比べて「時間」というものの価値が高まっているように感じます。
己と向き合うことが求められる仏道に対し、ビジネスではさまざまな相手と向き合うことも求められます。自分がなすべきことにおいて、自分の時間を無駄にしていないか。のみならず相手の時間も無駄にしていないか。そのような視点を持つことで、「時間」に対する姿勢は変わるのではないでしょうか。

「生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人」(平井住職直筆)

平井 正修(ひらい しょうしゅう)

臨済宗国泰寺派全生庵住職。1967年、東京生まれ。学習院大学法学部卒業後、1990年、静岡県三島市龍澤寺専門道場入山。2001年、下山。2003年、全生庵第七世住職就任。2016年、日本大学危機管理学部客員教授就任。現在、政界・財界人が多く参禅する全生庵にて、坐禅会や写経会など布教に努めている。『最後のサムライ山岡鐵舟』(教育評論社)、『坐禅のすすめ』(幻冬舎)、『忘れる力』(三笠書房)、『「安心」を得る』(徳間文庫)、『禅がすすめる力の抜き方』、『男の禅語』(ともに三笠書房・知的生きかた文庫)など著書多数。