2023年12月15日、『サステナブルな地域創生とDX』をシリーズテーマに日立製作所主催の2回目のイベントが開催された。今回のゲストは、紙管を使った建築や災害支援活動などで世界的に活躍されている建築家 坂 茂(ばん しげる)氏。イベント採録の第2回目は、講演の後篇、世界各地での被災地支援活動の現場について語っていただいた。

「第1回:作品づくりと社会貢献の両立をめざして(前篇)」はこちら>
「第2回:作品づくりと社会貢献の両立をめざして(後篇)」
「第3回:「動都」の持つ可能性」はこちら>
「第4回:地域創生の実際(前篇)」はこちら>
「第5回:地域創生の実際(後篇)」はこちら>

1994年ルワンダ大虐殺

左上:ルワンダ周辺国の難民キャンプ 右上:雨季の寒さに震える難民
左下:国連の難民シェルター 右下:深刻な森林伐採

1994年にルワンダで大虐殺が起こり、200万人以上の難民が周辺国に押し寄せました。当時の国連難民高等弁務官事務所が作った難民キャンプでは、みんな毛布を巻いて震えています。雨期はかなり寒いので、このシェルターでは耐えられない。もっとシェルターを改善したほうがいいと国連に提案書を送りましたが、返事は来ませんでした。

僕はあきらめきれずに、アポなしでジュネーブの国連難民高等弁務官事務所を訪ねました。運よくドイツ人のシェルター建設担当の建築家に会うことができ、僕の提案した再生紙による紙管のシェルターが採用され、コンサルタントもやることになりました。

難民は木を切ってフレームを作り、国連から支給されるプラスチックシートをかぶせます。しかしあふれる難民が木を切ったものですから、もともと森だったこの場所には全て木がなくなり、非常に深刻な森林伐採、環境問題に発展しました。

上段:アルミのシェルター 下段:紙管のシェルター

国連はその対策として、アルミパイプのシェルターを支給しました。ところがこの地域でアルミは非常に高価な材料なので、難民の人たちはお金のためにこれを売ってしまい、また木を切るので森林伐採の抑制につながりませんでした。そんなタイミングで紙管のシェルターを提案したものですから、それが採用されました。

1995年阪神・淡路大震災

左:震災直後の長田区 右:同じくカトリックたかとり教会

1995年は阪神・淡路大震災がありました。長田区のカトリックたかとり教会(※)には、たくさんのベトナム人の被災者が集まっていると新聞で知り、おそらく日本の被災者よりも大変な生活をしているのではないかと思い、現地を訪ねました。まだ煙が上がっていて、焼け野原の中でやっと教会を見つけると、全ての建物は壊れ焼失し、キリスト像だけが立っている。その周りでたき火を囲みミサを行っていました。ミサのあとで神父さんに、紙で作る仮設の教会の話をすると、「火事で焼かれた直後に何を言っているのか」という感じで相手にされませんでした。

※ 「カトリックたかとり教会」は、2010年に変更されるまでは「カトリック鷹取教会」という名称だった。記事では現在の名称に統一。

左上:ベトナム人のテント村 右上:紙管とビールケースの仮設住宅の試作
左下:風にも強く自然換気ができる構造 右下:室内の様子

でも僕はあきらめきれずに毎週日曜日、始発の新幹線で神戸に通いました。少しずつベトナムの人たちと親しくなって、彼らの生活状況がわかってきました。公園のブルーシートのテント生活で、雨が降れば中は水浸し、晴れた日は40度を超えるような悲惨な環境でした。

僕は学生を集めて、ビールケースと紙管で作ることができる仮設住宅を開発しました。構造計算をして台風でも飛ばないように砂袋を詰めて重りにし、屋根も二重にして自然換気が天井の中でできるようになっています。皆さん4年ぐらいはここに住んでいました。

左上:完成したカトリックたかとり教会 右上:学生による紙管の建設作業
左下:ミサの様子 右下:音楽会の様子

ようやく神父さんの信頼を得て、仮設の教会が建てられました。学生と一緒に手作業で作った紙管の教会は、数年の予定がなんと10年間もこの長田区の復興のシンボルとしてミサや結婚式、音楽会などで使われました。10年後の新しい教会も僕が設計しましたが、そのタイミングで台湾に大地震が起きまして、この紙の教会を解体して台湾に送りました。現地で再建された教会は、今でも台湾でパーマネントな教会兼コミュニティーセンターとして愛され使われています。

この時に、思いました。以前赤坂見附の交差点にあった高層ホテルは、30年を待たずに取り壊されました。コンクリートの頑強な建築も、利益目的の商業建築は結局全部“仮設”です。しかし、学生と一緒に作った紙の建築だって、皆さんに愛され続けることで“パーマネント(永久的)”になり得る。仮設とパーマネントな建築の違いは、ここだと気づかされました。

2011年東日本大震災

左上:東日本大震災の避難所 右上:紙管の組み立て作業
左下:家族ごとに仕切られた避難所 右下:熊本広域大水害の避難所

2011年の東日本大震災の典型的な避難所です。僕は2004年の中越地震の時から間仕切りを作るボランティアをはじめたのですが、管理が難しくなるという理由で全く許可してもらえず、東日本大震災の時に岩手県の大槌高校を管理されていた物理の先生からようやく許可をいただくことができ、500世帯分を1週間で作りました。それから30の避難所で2,000ユニット作りました。この間仕切りは太い紙管に細い紙管を差し込んでいるだけで、あとは安全ピンで布を留めるだけ。シンプルなので、家族ごとに大きさを変えています。

2019年の熊本広域大水害の時の避難所の時には、お医者さんがわれわれの間仕切りを見て、「これは飛沫感染防止に非常にいい」ということでお墨付きをいただきました。そして15年間やり続けて、ようやく内閣府から標準的な間仕切りとしての認定をいただきました。

左上:熊本広域大水害の仮設住宅 右上:雨漏りする天井
左下:室内の様子 右下:コンテナを利用した仮設住宅

熊本広域大水害の被災者は、4週間の避難所生活の後にこの仮設住宅へと移りました。しかしこれでは窓も開けられず、水も漏りますし隣の音も丸聞こえです。土地が流動化して政府の平屋の仮説住宅が建てられないこの地域のために、僕らは2011年の東日本大震災の時に宮城県女川町で作った、コンテナを市松模様に積んだ3階建ての仮設住宅を提案しました。

左上:建築中のコンテナ仮設住宅 右上:宮城県女川町のコンテナ仮設住宅
左下:室内の様子 右下:家具は全て学生の手作り

このスライドが2011年に宮城県女川町で採用された、コンテナの仮設住宅です。野球場の跡に190世帯分の仮設住宅を作りました。コンクリートは一切使わず、鉄のベースを敷いてコンテナを積み上げています。コンテナの中はトイレにユニットバス、キッチンが付いていて、家具は全部学生の手作りです。広さや予算は政府の作るプレハブ住宅とまったく同じ基準で作っていて、本当は4年間しかいられないこの仮設住宅に、皆さんは結局8年間住み続けていました。

2022年ウクライナ侵攻

左上:東ヨーロッパ各地で行われたボランティア 右上:間仕切りを組み立てるバン(VAN)のメンバー
右下:典型的な間仕切りのない避難所 右下:間仕切りのある避難所の様子

最後は2022年のロシアのウクライナ侵攻です。2月24日に難民が出て、日本と同じような避難生活をしていたので、間仕切りを付けるボランティアをポーランドの建築科の学生と一緒に行いました。ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク、通称バン(VAN)いうNPOの活動で、ヨーロッパ中で間仕切りを作りました。

左上:リヴィウ市長へのプレゼン 右上:現地病院の視察
下段:病院の完成イメージ

ウクライナで知り合ったリヴィウ市の市長から、病院を作って欲しいという要望がありました。リヴィウ市は比較的安全なエリアなので、国内移民や戦争のけが人がたくさん病院に押し寄せてもうキャパシティを超えているそうです。市長はこの病院を木造で建てたい。正確にはCLT(クロス・ラミネーティッド・ティンバ)という集成材を使って建てたいと言います。それは、CLTの東ヨーロッパ最大の工場がウクライナにあり、もともとカナダやアメリカへ輸出してものが海外に出せなくなってしまったので、これを使って2万5,000㎡の病院を設計してほしいということで、今設計を進めています。来年の夏には着工予定です。

それでは時間が来たようです。どうもありがとうございました。(第3回へつづく

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坂 茂(ばん しげる)

1957年東京都生まれ。クーパー・ユニオン建築学部(ニューヨーク)で建築を学び、東京、パリ、ニューヨークに事務所を構える。紙管を使った建築や、木材を使った革新的な構造で知られている。代表作はポンピドー・センター‐メス(2010年)、紙の大聖堂(2013年)、大分県立美術館(2014年)、ラ・セーヌ・ミュジカル(2017年)、富士山世界遺産センター(2017年)、SIMOSE(2023年)。1995年、NGO「ボランタリー・アーキテクツ・ネットワーク(VAN)」を設立し、世界各地での災害支援に数多く貢献したことからプリツカー建築賞(2014年)、マザー・テレサ社会正義賞。