株式会社 日立製作所 執行役常務 馬島知恵/バレエダンサー 二山治雄氏
17歳でローザンヌ国際バレエコンクールにおいて1位を獲得し、パリ・オペラ座バレエ団を3年経験。現在国内外でフリーのバレエダンサーとして活躍する二山治雄(にやまはるお)氏27歳。そして日立の社会イノベーション事業を取りまとめる、バレエファンの執行役常務 馬島知恵(ましまちえ)。対談第3回は、コロナ禍の経験について。

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「第2回:共感という起点」はこちら>
「第3回:コロナ禍という転機」
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コロナ禍だから気づけたこと

馬島
バレエダンサーにとって、約3年間のコロナ禍は、生活や意識に大きな影響があったと思います。その時のことについて、教えていただけますか。

二山
僕はパリ・オペラ座の契約団員として、2019年の12月31日まで公演がありました。それを終えて2週間の冬休みがもらえたので、日本に帰国しました。契約は2020年の1月半ばまでで、次の契約が3月からだったので、休暇を取るにはちょうどいいタイミングだったのですが、帰国した直後に日本でも感染者が確認され、パリに戻ることができなくなりました。

馬島
そのタイミングでコロナ禍が広がっていなければ、二山さんはパリに戻られていたのですか。

二山
そうなっていたと思います。しかし2020年に入ってコロナ禍は世界規模で拡大しましたから、パリ・オペラ座の公演もすべてキャンセルとなり、僕の契約も終了となりました。休暇のつもりの帰国から、そのまま日本にいるという状況になり、2020年4月に緊急事態宣言が出されてからは日本の公演もすべて中止となりました。バレエダンサーにとってコロナ禍は、本当につらい期間でした。

馬島
舞台がなくなってしまうということは、バレエダンサーにとって本当に致命的な事態ですね。

二山
これから先がまったく見えない状況になりましたが、今まで海外に住んで、ダンサーとして生きることに必死だった僕に、はじめて自分を見直す余白の時間ができました。これまでバレエだけしか経験してこなかった自分に改めて気がつき、このコロナ禍でなければできないことをやってみようと思いました。

馬島
それは、何だったのですか。

二山
アルバイトです。僕の高校生活はバレエ一色でしたが、周りの友人たちはいろいろなアルバイトをやっていて、仕事先の話などをよくしていました。そういう普通の高校生が通る道を通ってこなかったことを思い出して、生まれてはじめて履歴書を書いてアルバイトに応募したのです。

馬島
どういうアルバイトだったのですか。

二山
朝3時から9時まで、24時間営業をしているスーパーで品出しをしながらレジ打ちをするというアルバイトです。レッスンやトレーニングは毎日通常通りにやりながらできるバイトということで、その時間を選びました。

馬島
それだと寝る時間も取れなかったのではないですか。

二山
それでも3~4時間は眠れました。そのアルバイトではじめてお給料をいただいた時に、僕の中では自分で仕事をしてお金を稼いだことが本当に新鮮で、感動しました。ただのアルバイトですが、何かはじめて社会に貢献できたように思えたのです。今まで舞台で出演料としてお金はいただいていましたが、「これは仕事なのか」という思いがずっとあって。金額は少額でも、アルバイトで稼いだことにとても大きな価値を感じました。

馬島
それはどれくらいの期間、働いたのですか。

二山
約半年やりました。スタジオパフォーマンス的な仕事が入り、そちらに集中する必要があったので辞めることになりましたが、その後も介護施設でアルバイトをしました。僕は資格を持っていないので、簡単な事務作業とヘルパーさんのお手伝いをする仕事でした。

馬島
記事などで二山さんが一時期アルバイトをしていたことは知っていたのですが、そこまで過酷な生活をされていたことは知りませんでした。驚きました。

二山
アルバイトを経験し、自分を見つめ直すことで、僕のバレエに対する考え方も変わりました。それまでは、常に自分を高めるために厳しくバレエと取り組んできました。でもアルバイトを通して、誰かの役に立つことの喜びが湧いてきたのです。人に喜んでいただくためにがんばること、それが本当の仕事なのではないか。自分ではなく、見にきていただいたお客さまを幸せにする。これからはそのために踊ってみようと心から思えた時、自分自身とても納得できて何か楽になったのです。

コロナ禍のこの期間、契約が終了したり、舞台に立てなかったりいろいろなデメリットはありましたが、僕の中では自分を見つめ直す貴重な時間になりました。

シドニーで経験したコロナ禍

馬島
私は2019年の4月から2021年の3月まで、日立オーストラリアの社長としてシドニーで働いていました。2020年の1月に一度日本に帰国して、シドニーに戻る時コンビニでマスクを買おうと思ったら、もうマスクがない。そのように日々状況が悪化していきました。オーストラリアやニュージーランドはコロナでの入国制限が厳しい国でしたので、シドニーに戻ると移動制限もあり、結果的にそこから1年間以上日本に帰れなくなりました。

二山
僕とは逆ですね。

馬島
はい。航空便もどんどん本数が減っていき、一時はこのままシドニーで一生を過ごすことになるかもしれないと思うと、非常に重苦しい気持ちになりました。しかしオーストラリアの方々は、非常にフレキシブルでまずはトライしようという前向きな気質なので少しずつでも日常を取り戻す工夫をしはじめました。

例えば日立オーストラリアはコロナ禍の当初、オンラインで仕事をする環境は持っていなかったのですが、ともかくやってみることにしました。そしてその1週間後には、リモート環境を皆さんと相談しながら構築しました。コロナ禍のような緊急事態はこれからも起きる可能性がありますが、その時は状況に合わせた柔軟でスピーディーな対応が何より重要だということを彼らから学びました。一緒に厳しい時期を過ごしたメンバーには、今でも感謝をしています。

二山
その時はバレエスタジオもお休みですか。

馬島
私が通っていたシドニーのダンススタジオは、コロナ禍でスタジオはすぐに閉鎖になりましたが、1週間後にはオンラインのレッスンがスタートしました。夕方になると先生が、Zoomで「元気でやってる?」と呼び掛けくれて本当に救われました。今でも休暇でシドニーに行く際には、その時の先生方のレッスンを受けて恩返しをさせていただいております。

二山
日本でオンライン配信がはじまったのは、もっとずっと後です。とにかくはじめてから考えよう、というのが欧米やオーストラリアのやり方なのでしょう。

馬島
バレエのオンラインレッスンでびっくりしたのは、先生の自宅のキッチンから配信していたことです。どこからでもよいので、まずは配信して皆で励まし合うという気持ちがとても伝わってきました。

二山
それ、僕も見ました。あれはキッチン台がバーの代わりにちょうど良かったからだと思いますが、ああいう発想で思いついたら発信してしまうというのが、日本人は苦手ですね。

馬島
私なら部屋がきれいになっているかとか、身なりは大丈夫かといったように、とっさに体裁を考えてしまいます。日本人は真面目が取り柄ですが、あの柔軟性は吸収すべきだと心から思いました。ビジネスで重要な柔軟性とスピードの大切さを、コロナ禍から学びました。(第4回へつづく

撮影協力 JustCo DK Japan 株式会社

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二山 治雄(Haruo Niyama)
1996年長野県松本市生まれ。7歳よりバレエをはじめ、小学校5年より白鳥バレエ学園にて塚田たまゑ・みほりに師事。2014年第42回ローザンヌ国際バレエコンクール第1位、ユースアメリカグランプリ シニア男性部門金賞。ローザンヌ国際バレエコンクールのスカラシップでサンフランシスコ・バレエスクールに留学。2016年ワシントンバレエ団スタジオカンパニーに入団。2017~2020年パリ・オペラ座バレエ団契約団員として入団する。アブダビ、シンガポール、上海ツアーにも参加。2020年、コロナ禍の中帰国。以降フリーのバレエダンサーとして、さまざまな舞台で活躍中。2023年に東京新聞制定で日本の洋舞界で活躍する若手ダンサーに送られる「第29回中川鋭之助賞」を受賞。来年には初めての写真集も出版予定。

馬島 知恵(Chie Mashima)
1989年、日立製作所入社。2018年、社会ビジネスユニット 公共システム営業統括本部 営業統括本部長。2019年、理事/日立オーストラリア社 社長。2023年4月、執行役常務 営業統括本部副統括本部長 兼 デジタルシステム&サービス担当 CMO兼 社会イノベーション事業統括本部長。

『HARUO NIYAMA』
(フォトグラファー:井上ユミコ/編集・ライター:富永明子,株式会社EDITORS)
表現者としてのバレエダンサーの魅力を、1人1冊の洗練された写真集で伝えるプロジェクト「ASSEMBLĒS(アッセンブレ)」。その第一弾を、二山治雄氏が飾ります。