糸井重里氏 株式会社ほぼ日 代表取締役社長/山口周氏 独立研究者・著作家・パブリックスピーカー
「おいしい生活。」をはじめとする数々の名コピーを世に送り出し、コピーライターとして一世を風靡した糸井重里氏。作詞家、エッセイスト、ゲームクリエイターとしても幅広く活躍してきたほか、ウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」を運営する株式会社ほぼ日を、代表取締役社長として率いる経営者としての顔を持つ。糸井氏にとって「会社」とは、「言葉」とは、「生き方」とは。糸井氏に憧れてきたと話す山口周氏が掘り下げていく。

「第1回:『一番嫌じゃないものを選ぼう』」
「第2回:『近いんだけど、ちょっと違うんだな』」はこちら>
「第3回:問われるのは『無駄をした後をどう生きるか』」はこちら>
「第4回:稀代の経営者から学んだ『質問返し』の経営」はこちら>
「第5回:『羨ましくないもん』という佇まい」はこちら>

板前さんも老いていく

糸井
山口さん、お会いするの初めてですよね。

山口
はい。ただ、糸井さんの事務所が青山にあった頃、同じビルで働いていたことがあります。実は篠田真貴子さん(エール株式会社取締役、2018年まで株式会社ほぼ日取締役CFO)とご縁があって、事務所にお邪魔したこともありました。その後もイベントなどでニアミスしていますが、なかなか直接お話しする機会がなくて。本日はたいへん光栄です。

糸井
僕も、山口さんのご本は読んでいて、どこかで会えたらいいなと思っていました。

山口
どうもありがとうございます。私は1994年に電通に就職して、それから30代の前半ぐらいまでずっと広告の仕事をしていましたから、青春時代に広告領域で大活躍されていた糸井さんは非常に眩しい存在でしたし、今でも憧れの方です。

糸井さんと言えば「ほぼ日刊イトイ新聞」ですが、開設されたのが1998年ですね。「Yahoo! JAPAN」日本語版がサービスを開始したのがその2年前の1996年でしたから、本当に黎明期からインターネットを活用しておられましたよね。『インターネット的』を上梓されたのが2001年だったでしょうか。その中に書かれていたことにも深く共感しました。当時20代後半だった私は、インターネットの登場に夜も眠れないくらいワクワクして。

糸井
しましたよね。

山口
自分のキャリアが本格的にスタートするタイミングでこういうものが世の中に出てくるとは「なんてラッキーなんだ!」と思って最初の会社を辞めてしまった。でもその後、自分がワクワクした感じと日本のインターネットがちょっと違う方向に行ってしまった感じがしたんです。それで結局インターネットにはあまり関わることなく今に至ります。

糸井
日本のインターネットが、当時の僕らの期待とは違う方向へ行ってしまったのは確かですね。

山口
「ほぼ日刊イトイ新聞」は糸井さんの個人サイトとして開設され、その後、物販や出版事業を拡大されてきました。運営会社である株式会社ほぼ日も、糸井さんの個人事務所から出発して、株式会社に組織変更、社名変更された後、2017年に上場を果たしましたね。

それで、今日はまず糸井さんにとっての「会社」とは何か、ということについて伺いたいと思います。株式会社って資本主義の象徴みたいに言われますが、一方で現実の会社の中は会議室やコピー機を共用したり互いに仕事を融通し合ったりと、いい意味での共産主義的なところ、共同体的な側面がありますよね。僕は、糸井さんが「会社」という組織をつくったのは、そうしたコミュニティとしての役割を求めてのことではないかと思っているのですが、そのあたりはいかがでしょうか。

糸井
おもしろい視点ですね。まず、会社でやるという発想はもともとなかったんです、僕には。フリーランスだったので、言ってみれば「包丁一本で勝負する板前さん」のような美意識があった。職人や研究者に近い価値観を持っていたんだと思います。

そして、若い頃はそれでやっていけると思っていた。でもそのうちに、板前さんの運命を左右するのは板前さん自身じゃないことに気づくわけです。何回も話していることだけれど、プレゼンで落ちる回数が段々と増えてきたんですよ。それはやっぱり、世の中の価値判断が僕のそれとは違う方向に行っているということです。だから板前さんとして相対的に老いていくことは、最初から目に見えていたわけです。

ただ、そのときに、「あいつはもうダメだけど、義理があるから店に通ってんだよ」みたいに言われるようになるのも嫌だった。本当は要らないのにこれまでの付き合いがあるから、という付き合いをされるのは「あまりかっこよくないな」と思ったんです。

チームプレーのおもしろさを知って

山口
本当に周りがそう思っていたかどうかはさておき、そこは糸井さんの美意識でしょうか。

糸井
そうですね。美意識ですね、きっと。

だから早めに動いたほうがいいと思って、包丁一本ではなくチームで仕事をするほうに気持ちが傾いたんです。その頃ちょうどインターネットが出てきて、その中に「場」をつくることを考えると、それはチームにならざるを得ない。だから会社という形よりも先にチームだったんですね。最初はやりたい人が2人、3人と集まってきて、しばらく続けていくうちに圧倒的にチームプレーのほうがおもしろくなって可能性も感じました。同時に、おっしゃるように当時のインターネットには並外れたワクワク感があって、それが僕を勇気づけてくれました。

大きな規模でものが動くことも、広告をやっていた頃には好きでしたから、それは否定しないけれど、やっぱり「手触りを感じるものごとを重ねていったら一つのものができた」という物語のほうに自然と心が向かっていったんです。そうしているうちに「チームがなかったらオレはないなぁ」ぐらいの気持ちになって。

ですから「会社」という言葉についても、実はよく分かっていない(笑)。

山口
考えてみれば「会社」って不思議な言葉ですよね。

糸井
不思議ですね。僕が会社というものについての考えを深めたのは、岩井克人さんの『会社はこれからどうなるのか』と『会社はだれのものか』を読んでからです。

山口
岩井先生は、会社は「モノ」であり「ヒト」であるという二重構造になっているとおっしゃっていますね。

糸井
あれはやっぱり大きな刺激になりました。ですから上場した後、最初の株主総会の基調講演は岩井さんにお願いしたんです。

山口
そういうご縁があったのですね。会社とは何なのか悩まれていたとき、岩井先生の見方が腑に落ちたということですか。

糸井
そうですね、しっくりきました。加えて、現実にやってみて分かることも多いんです。その中でつかんだ僕の会社論があるとすれば、その大元には、一番正しいものを選ぶというより「一番嫌じゃないものを選ぼう」ということがあると思います。さっきおっしゃった「会社の中は共産主義的」というのは、僕の言葉で言うと「前資本主義的」、つまり道具の貸し借りだったり、人手の貸し借りだったりという贈与的なところから出発して、現実の進行に合わせて古いものを残したり、新しいものを取り入れたり取捨選択していく。会社としての正しい理念を先に据えて、それに合わせて行動するということではなくて、居心地の良し悪しを基準に動いていくことが積み重なって、会社になっているという感覚です。(第2回へつづく)

「第2回:『近いんだけど、ちょっと違うんだな』」はこちら>

糸井 重里(いとい・しげさと)
1948年、群馬県生まれ。株式会社ほぼ日 代表取締役社長。1979年東京糸井重里事務所設立、コピーライターとして数々のコピーをヒットさせるとともに、作詞やエッセイ執筆、ゲーム制作など多彩な分野で活躍。1998年に開設したウェブサイト「ほぼ日刊イトイ新聞」では、「ほぼ日手帳」をはじめ「ほぼ日のアースボール」、「ほぼ日の學校」などさまざまなコンテンツを手がける。「株式会社 ほぼ日」に改称、2017年ジャスダックに上場した。
『インターネット的』(PHP新書、2001年)、『ほぼ日刊イトイ新聞の本』(講談社、2001年)、『思えば、孤独は美しい。』(ほぼ日、2018年)など著書・共著多数。最新著は『生まれちゃった』(ほぼ日、2023年)。

山口 周(やまぐち・しゅう)
1970年東京都生まれ。電通、ボストンコンサルティンググループなどで戦略策定、文化政策立案、組織開発等に従事した後、独立。
著書に『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』(光文社)、『武器になる哲学』(KADOKAWA)、『ニュータイプの時代』(ダイヤモンド社)、『ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す』(プレジデント社)他多数。慶應義塾大学文学部哲学科、同大学院美学美術史学専攻修了。